空の翡翠
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毎日
1
かつて私には恋人と呼べる存在がいた。
かつてという言葉には過去形を含むから現在私には、恋人はいない。大学の友人たちにはだいたい彼氏か彼女がいて、なんだか私だけ取り残されているような気がするけれども、今現在、私には新しい恋人を作る気はない。
別に異性に魅力を感じないとか、同性しか愛せないとか、そういうわけで作らないんじゃない。
昔はそれなりに異性に関心を持っていたし、男性に体を抱かれる事も何回かあった。だけど気難しい性格の私は、あまり男性側にとっては魅力的な存在ではなかったらしい。だいたい付き合って三ヶ月もしない内に男性側から別れを告げられて、その度に私は不機嫌になって私を振った男の顔面を殴りつけてやる事も一度はあった。
そのくらい気難しく、そして荒々しい私に近づいてくる男など大学に入学して半年も経たない内に一人もいなかった。
だから私は諦めていたのだ。
私を理解してくれる男なんかいない、私の全てを受け止めてくれる男なんていない、と。だけど神様は何を思ったのか、それとも何も思わずにただ私をからかいたかっただけなのか、クリスマスイブの日に私をある男に会わせてくれた。
それは文芸サークルのクリスマス会。
私は本こそは読むが、自ら小説を書いたりはしない。だから無縁のサークルだった。というか、集団で行動するのが大嫌いな私はサークルそのものを毛嫌いしていて、どこにも所属していなかった。
だから文芸サークルの友人からクリスマス会に誘われた時、私は断ろうとした。だって文芸サークルで顔見知りなのは私をクリスマス会に誘ってくれる友人だけだったし、あまり大勢の集まった場所で長時間居続けるなんて苦痛でしかないのだから。
だけど、文芸サークルの友人は私を強引にクリスマス会に連れて行こうとした。「大丈夫、人はそんなに多くないから」という友人の言葉を半信半疑で信じて、嫌々ながらもクリスマス会に参加する事になったのだ。
2
場所は大学でもカラオケ店でもなくて、コーヒーの香りが店内に充満している小さな、だけどお洒落な喫茶店だった。
店内の配色はだいたい黒で統一されていて、木造作りのディスクや手作り感漂うチェアがあって少し暗いようなイメージを受けたけど、落ち着けるお店だと思った。
文芸サークルのメンバーは店内の一番奥の、十人くらいが向き合ってコーヒーを飲める席に全員揃って座っていた。
どうやら最後に来たのは私と友人みたいで、開いている席に小声で「お邪魔します」と言いながら座った。友人は私の隣の席に腰かけ、バッグは床に置いていた。私も友人に習い、白い布でできた手提げ袋を床に置くと、私は周囲を見渡した。
文芸サークルの面々は友人が連れてきた私に多少の興味を持っていたようで、学年を聞かれたり、好きな作家の名前を聞かれたりした。みんなが落ち着いた雰囲気で、和やかに好きな作品を語ったりただの雑談をしたりしているから、私の緊張も解れてすんなりと文芸サークルの人たちと解けあうことができた。
コーヒーと簡単な食事が出てきて、ますます会話は盛り上がっていく。私もコーヒーを飲みながら雑談に加わっていたのだが、次第に飽きてきた。
私の悪い癖で、すぐに何でも飽きてしまう。
でもだからと言って、途中退席するのはあまりにも無礼だし、私は会話にはあまり口を挟まずにみんなの会話に適当に相槌を打っていた。
しばらくそうしていると、唐突に私に話を振ってくる青年がいた。今までずっと黙っていたから、私はその存在を忘れかけていた。それはサークルの人たちも同じようで「今日初めてお前の声を聞いたよ」と苦笑いを零している人がいたくらいだ。
「君はどの小説が好きだい?」
優しくて、年よりは落ち着いた声音だった。
「えっと、さっきも言ったと思うんですが……」
どの作家が好きだとか小説が好きだとかは最初に散々聞かれた。だから今更答える必要なんてないと私は思って、青年のこげ茶色の瞳を見つめた。
「いいや、そうじゃない。僕が聞きたいのは、どうしてその小説が好きなのか、どの部分がどうして好きなのか、っていうことだよ」
あまり深く考えずにいつも読んでいる作家や作品の名前を上げていた私は、少し戸惑った。好きなシーンや感動した台詞は思い出せる。だけど、どうしてその小説が好きなのか、と聞かれると具体的に答えることができなくなる。
「……それは、色々と考えさせられる本だったからです……」
と私は苦し紛れに答えたが、青年の優しい瞳にはその回答に納得していないようだった。
「社会性をテーマにしている作品はたくさんあるよ。なのに、どうして君はその作品が好きなんだい? 何か理由があるのかい?」
「えっと、その……」
返答に困る私を見かねてか、文芸サークルの部長さんが「おいおい」と私と青年の間に割って入ってきてくれた。
「サークルメンバーでもない彼女にそんなに問い詰めるなよ。彼女、困惑しちまってるぞ?」
「僕は別に問い詰めているつもりはないんだけど……」
「お前にはその気はなくても、そうなんだって。お前いい加減その無意識に人を問い詰める癖なくせよな」
呆れたようにサークル部長はため息混じりに言った。だけど青年はちょっと不服そうな顔をして、私と部長を見比べている。
青年の目は私を優しく見据えている。だから青年にしてみては、私を別に問い詰めているわけじゃないのだろう。私はそれを青年の目で理解した。
「……私がこの小説を好きなのは、自殺を否定も肯定もしていない作品だからです」
これが精一杯の答えだった。
「おいおい、無理して答えなくてもいいんだぜ?」
と部長さんは言ってくれたが、青年は私の答えにどうやら満足してくれたみたいだった。目がすっと細めらて、私を真っ直ぐと見つめている。
……これが私と彼との初めての出会いだった。
その時にはまだ、お互いをそんなに意識していなかった。だけど、あのクリスマス会以来私はよく文芸 サークルに招待されることがあって、その度に彼と親密な仲へとなっていった。
……恋人と呼べるくらいの、親密さに。
彼は私より一つ年上で、都内のマンションに住む英文科の生徒。私は民族文化を専攻しているから、あまり講義で出会うことはなかったけど、彼と付き合い出してからは私はよく彼のマンションに行ったりした。
彼が私の家に来ることは、一度もなかった。
私は両親と暮らしているから、彼氏なんて連れて中々連れてこれないし、何よりも私の両親は今時珍しい厳格な両親だったから、とてもじゃないけど、彼を連れて来るなんてできなかった。
まあ、それでも彼のマンションに行ったり、彼と些細なデートを繰り返していたあの日々はとても幸せで温かいものに包まれていたような気がする。気がする、じゃなくて絶対そうだった。
両親からは受けられなかった、無条件の愛情を彼は私に注いでくれていたし、彼の傍にいると私の荒れた心も癒されているような気がしていた。
毎日が楽しくて。
毎日が幸せで。
毎日が嬉しかった。
だけど。
彼はいなくなってしまった。
私の前から、姿を消した。いや消したという表現は、不適切だ。彼は消えてしまったんじゃない。死んでしまったのだ。
それも、自らの手で。
あの日はとても冷たい雨の降る、まだ梅雨明けを迎えていない六月の中旬で、私は家にいた。両親は両方とも仕事で家にいなくて私一人だけが、無駄に広い家にいた。
彼に勧められた小説を自分の部屋で、ホットコーヒーを飲みながら読んでいたのだ。四日前に文芸サークルで「この本お勧めだよ」と手渡されたのはイギリス文学の古典で、原文なんてとてもじゃないが私には読めないのを彼は知っているから、お勧めの翻訳家が翻訳した本を私に貸してくれた。分厚い本で難解なテーマが描かれている作品だけれども、翻訳家の読みやすい翻訳のお陰でスイスイとはやいペースで本を読むことができた。
だから私は本に熱中していて、携帯に電話がきていたことにまで気づけなかった。ようやく電話に着信があったのに気づいたのは、ちょうど本を半分くらいまで読んでいい区切りだからと本を閉じた時。最初の着信から二時間も時間が過ぎていた時だった。
携帯を何気なく手に取り、メールの確認でもしようとしていたら着信が友人から三回もかかって来ていたことに気づき、慌てて友人に電話をかけた。
するとすぐに友人は出て、開口一番に彼が今日の未明に、彼のアパートで死んでいたことを早口で私に告げた。
私は最初、何かの冗談だと思ったが友人の険しい口調と迫力に、ようやく私は事態の重さに気づくことができたのだ。
私は動転しながらも友人にこれから私はどこに行ったらいいか、と尋ね友人は「彼の実家に彼の死体が運ばれている」と答えて、私は友人に彼の住所を聞いてからすぐに身だしなみも整えずに家を飛び出た。
彼の実家に電車で乗り継いで辿り着いたのは私が家から飛び出して一時間後、午後四時半のことだった。彼の実家は私たちの住む県の隣県にあり、辺り一面が田園風景という結構な田舎町にあった。
彼の実家は中々に古風な造りの家で、昔ながらの家というイメージを受けた。門にはたくさんの彼の親戚や友人の車が止まっていて、たくさんの人が出入りしている。私もその中に混じりながら、玄関にお邪魔して、玄関で客人を接待している、おそらく彼の母親だろうと思える人に私は話しかけ、私と彼との関係を簡潔に、そして少し取り乱しながら話した。
すると彼の母親はすぐに何もかもを理解してくれて、彼の遺骸が置かれている和室へと通された。
「…………」
たくさんの人の声が絶えず聞こえる声もただの雑音に聞こえてくる。
彼の遺骸は、和室の部屋の一番奥に安置されていて私はそっと近寄り彼の顔を窺い見る。彼ではないように、という淡い思いを浮かべながら。
だけど、現実はあまりにも残酷過ぎて。
彼の遺骸は冷たくて、まるで人形のようだったけれど、彼の表情はどこか幸せそうに見えた。
「うっ……」
私はその場に泣き崩れ、悲鳴のような泣き声を上げた。
すぐに私を呼んだ友人や、彼の母親が駆けつけてくれて私を必死に慰めようとしてくれたけど、取り乱した私はずっとその場で、彼の亡骸に抱きついたまま、離せずにいた。
3
それからの記憶はあまりない。
淡々と何かが通り過ぎて行った。
彼の両親から彼の幼い頃の話を聞いたり、彼が今日の未明に薬を大量に飲んで自殺したこと。その他にはこれからの通夜や葬儀の日時のことなんかを聞いたりした。
でもボーっと、気力も何も失った私にはそんなことはどうでもよくてただ涙を流しながらそれを聞き流していた。
だが、彼の母親が思い出したように言った言葉に私は顔を思わず上げた。
「そういえばあの子の遺品の中に日記帳みたいなのがあったわ。私も気が動転しちゃっていて、今まで忘れちゃったけれど……。ちょっと待ってて、持ってくるから。あなたなら、見る資格があると思うし」
それから手渡された日記帳を私は家に持ち帰り、落ち着くまでそれを見ることができなかった。度胸がなかったのだ。
彼の日記を読めば、彼との毎日を思い出してしまう。それは酷く辛いことだったし、どうして彼が自殺なんてしたのかも分からない。
もしかしたら彼にはその兆候があったのかもしれない。
自殺する兆候が。
だけど、それに私は気づいてあげることができなかった。それが悔しくて、悲しくて。彼が自殺して、三ヶ月経つまで私は彼の日記帳を開けることができなかったのだ。
彼の日記は彼が高校を卒業した日から始まる。
最初はただその日何を読んで、どう過ごしたかを書いてあるだけで日記というよりはメモ帳みたいに感じたけど、ある日を境に彼の日記は大きく変わる。
味気のない、メモ帳みたいな日記帳からまるで恋愛小説のような優しい文体に変わった日。それは……私と彼が初めて出会った日、半年前のクリスマスの日からだ。
それからの彼の日記は私のことばかり書かれていて、それのどれもが愛に満ち溢れていた。
私が笑うときにできる笑窪が可愛いとか、そんなことばかりが書かれていて。
私は泣きながら彼の日記を読んだ。
彼が自殺してから三ヶ月もの間、私は何も考えずただ怠惰に時間を過ごしてきた。彼が死んだ事実を認めたくなくて、彼から電話がかかってきてくれるような気がして、一日中彼からの電話を待った日もあった。
だけど、そんなものは来るはずもなくて。
だから私は何故彼が自らの手で生涯を終えようとしたのか、探ろうとした。それがもし私が原因で自殺したものでも構わない、と思いながら。
とにかく彼を感じたくて彼の日記帳をまるで分厚い本を読むように読みふけった。
でも、結果は分からなかった。
彼が死ぬ直前に書かれた日記にも、自殺を示唆する言葉とか遺書とか、恨み言とか、そういう物は一切書かれておらず、日記帳の最後のページにはたった一行だけ、紛れもない彼の優しい文体で書かれてあった。
"大好きな君へ。今までありがとう。ごめんね。"
――君を愛しているよ、永遠に。
優しい優しい文字で、優しい優しい言葉を最後に残した彼。
どうして自殺なんてしたのか、今でも分からない。
君を愛しているよ、なんて言ったってあなたはもういないじゃないの。
私はあなたの全てを分かっているつもりだった。だけどそれはお門違いで私は彼をまったく、これっぽっちも理解できていなかった。
最後まで彼は私を傷つけまいとしてわざと真実を語らなかったのだ。
……それすらも理解できずにいた私は、本当に馬鹿で。
4
どうして彼が自殺したのか。
それは彼が誰にも語らず、両親にすらも話していなかったから誰にも分からない。もしかしたら大学でうまくいっていなかったのかもしれないし、精神病を患っていたのかもしれない。
だから私は私は彼が自殺して、半年経ってもその真実を知ることはできない。これからもできないだろう。
だが、以前彼に勧められて読んだ本の言葉にこんなことが書かれていた。
"人は死にたいから死ぬんじゃない。
本当は生きたいのに、生きていけないと思うから死ぬんだ。"
もしも過去に戻って彼とやり直せたら。
そんなことは何度も思った。でも思う度に馬鹿らしいと笑いながら、涙を流し続ける。これが彼を最後まで理解してあげられなかった私の罪だと思って。
あなたのいない毎日は曖昧で、無味乾燥としていて。
あなたが死んでから私の毎日は色を失って。
あなたがいない毎日。でも「毎日」は無理やりにでも私を引っ張っていこうとする。私の心なんて無視して。
私の視界は灰色に濁って、窓の外の晴れた空を見つめる。
悲しい毎日は終わることがない。
あなたのいない毎日なんて、毎日じゃないよ…・・・。
「あなたのいない毎日なんていやだよ」
虚空に呟いた声は空しく、新しい毎日に切り裂かれて消えた。
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