通夜の夜にあった事を全部橘へ話している内に、だんだんの胸の奥が温かくなってくるような気がした。
橘は俺の話に一々相槌を打ちながら、真摯に話を聞いていてくれた。こんな事はかつてなかった事だ。
俺の話を聞く橘は、いつもなら聞いているのか聞いていないのか分からないような聞き方だったのに。
「そうか」と全部が話し終えると、橘はそっと席を立った。
そして微笑みながら俺の隣の机のテーブルへと腰を落とした。
俺と対等に目線を合わせて橘と話をするのは、もしかしたらこれが始めてなのかもしれない。
「お前は、救われたんだな」
その言葉はどこか、憂愁の響きがあった。
「葬式っていうのはどんなもんだ?」と橘は尋ねる。
「どんなものって……」
何から言えばいいのか、よく分からない。
「骨を見たんだろう?」
「まあね」
「どう思った?」
火葬場で、骨となった妹。かつての面影なんか微塵もなくて、凄く虚しい気持ちになった。
「実感ないな、って思った」
人が死んだ実感。俺はまだ、感じられていない。
「そうか」
「今でも妹が生きているんじゃないかって……馬鹿な話だけど、思う」
橘は微笑んで聞いていた。橘の視線は、窓の外を見つめている。
何度も二人で見た、夕焼け。
俺にはちょっと、いつもと違うように見えた。いつもより綺麗で、美しくて、優しい。そう俺には見えた。
「俺だって何度も思って来た事か。人の死は……心を乱すな」
「……アンタだって辛いんだろ?」
俺は家族を失った。
橘は家族となるはずの人を失った。
比べられるものでは決してない。それでも俺の目には橘が悲しく映る。
あの日、妹が死んだ日の親父と同じように。
表情には出していないのに、何故かそう感じた。
橘は口元を緩める。
「愛を失ったわけじゃない」
そう突然言った。
「……?」
小さくともしっかりとした声で橘は囁いた。夕日に照らし出される橘の横顔は哀愁に満ち、そしてひどく穏やかだった。
なぜだか分からないけれど、嫌な胸騒ぎがした。
「桃子が死んでも――。俺の傍に居なくても。
俺は桃子の事を愛している」
今まで橘が愛だの恋だのを話しているのに激しい違和感を感じていたけれど、今の橘にはそういう違和感がない。
あまりにも真剣で、あまりにも穏やかだから。
もしかしたら誰よりも似合っているかもしれないと、俺は思う。誰よりもはっきりとした言葉で率直に想いを伝える。中々出来る事じゃない。
クサイ台詞だろう? と橘は俺に苦笑混じりに言った。
「……立派だよ。アンタは」
俺は素直に橘を讃える。俺には何年もかかってようやく辿りつけた事だったからだ。
「立派? 俺の何処がだ」
「素直言えて……さ。想いを伝えられて」
かつての俺だったら羨ましい、と思うだろうな。
「…………」橘は深く溜息を吐きながら肩を落とす。
まるで出来の悪い生徒に呆れているようだ。
「――言葉の本来の意味。
それは意思を伝えるためにある」
橘の言葉はまるで、子守唄のように優しい。
声音が優しいだけじゃない。
優しい言葉を放つ橘の顔も――穏やかだった。
まるで、殺される事がわかっていても穏やかに過ごし続けたイエス・キリストのように。
「そういう俺だって……桃子の生きている時、伝えらなかった……」
だからと。橘は俺の頭を大きな手の平で撫でた。
「後悔しまくりの人生だ。でもそれでいい」
手を離して橘は窓の外へ振り返る。
光が橘の黒い双眸を輝かせオレンジ色の線は橘の元だけを照らし出した。
「俺は行かなければならない」
桃子の元へと。
しっかりとした声で橘は言うと、白いシャツの胸ポケットから青色の細長い何かをを取り出した。目覚ましの針を手動で回すような、そんな音が教室に響いた。
青くて細長い銀色の刃がゆっくりと伸びる。一度も私用された事がないのだろうか、綺麗に研がれたままで鋭く白く、光っている。
「馬鹿だろ? でも、これしかできない。心が……休まらないんだ――」
橘は光る刃を口元に当ててそして天井へと高く突き上げた。橘の瞳が俺を見据え薄紫色の唇は細く弧を描かれた。
「最後に言っておく」
囁くような静かな声で――いつものように落ち着いた――橘は言った。
「これで授業は終わりだ」
(我が教え子よ、これが別れだ)
授業で生徒達に指導する時のみたいに、やる気のない面倒臭そうな調子で橘は言うと、突き上げた両手を一気に振り下げた。握られていたカッターナイフが、橘の喉元を真っすぐと射抜く。
何とも表現できないような奇妙な音が耳に聞えて、橘の両手は一瞬の間に真っ赤に染まった。
深く橘の喉を射抜いたカッターは、橘が後ろから倒れた瞬間に床に転がり、カッターの金属的な音と橘の肉体が倒れる音が同時にした。
喉元から大量に流れる血は、橘の手元や胸元を濡らし、教室の床や窓にまで飛び散っていた。
橘が倒れた音を最後にして家庭科室は奇妙な静けさに包まれた。俺の足元には橘がうつ伏せで倒れている。
これは一体どういう事だ?
そんな疑問を持っても、もう答えを返してくれる橘は絶命していた。
俺は怯え震える体に鞭を打ち、橘の亡骸へとしゃがみ込み橘の左手の手首を掴む。脈があるなんて思ってもいなかった。実際、脈なんて打っていなかった。
どう手当てしても、誰を呼んでも橘は助からない――帰って来ない。
そんな事だけがこの状況で理解できる、ただ一つの事だった。
橘は最愛の人を守ってあげられなかった事をひどく後悔していた。自殺するほど悩んでいた恋人に気づいてあげる事ができなかった。
だから山口先生が死んでから、ずっと橘は自分に問い続けてきた。「俺は生きていていいのだろうか」と。
橘は、橘先生は一体死ぬ直前に何を思ったのだろう。
自殺する直前まで、どんな感情だったのだろうか。
理解できない。
理解できなかった。
俺がただ理解できるのは、大切な人をまた失ってしまったという深い悲しみと――何かが終わりを告げた、安堵感だった。
「……っ」
橘先生の手を握りながら、涙がこみ上げてくる。ポロポロと涙が零れ落ち、嗚咽までもこみ上げてくる。
我慢して抑えられるような涙ではなくて。
最後まで俺に「大切な事」を教えようとした橘先生の亡骸に寄り添いながら、俺はずっと泣き続けた。
橘先生が最後まで教えようとした「大切な事」に俺はただ泣き縋りながら。
声を上げて。
続きを読むで後書きです。
この作品は、管理人が中学2年生の時に書いたものです。
少しだけ推敲をしておりますが、あまり変わっていません。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
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