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最期の先生04



 十二月の始まり、生徒達は受験を控え熱気だっている中、俺の家は冷蔵庫の中よりも冷えていた。
 黒い喪服に身を包んだ親族たちが絶え間なく俺の家へと訪れた。誰もが開口一番にご愁傷様、と悲しそうに漏らして誰もが皆、笑わなかった。
 俺の家には小さいながらも一階に和室がありそこに親族たちが集中して集まっている。親族たちに囲まれるように横たわっているのは俺の妹だ。
 ほとんどランドセルに腕を通していない、ピカピカの赤いランドセルが妹の頭上に置かれている。その近くにはご飯や水、ロウソクなどが作法通りに並べられ、無機質な装飾品のような印象を俺は受けた。女性が首にネックレスを飾るのと同じように。
 可哀そうに、誰かの声が静寂に包まれた部屋に響いた。今年で八十になる祖母だ。彼女の目元からは小さな涙が光っている。
 祖母の言葉がきっかけだったのか、親族達は次々に言葉を吐き出した。
 妹の年齢、妹の病気、妹の性格や思い出……。
 俺にも会話が何度か振られたけれども、俺は適当に相槌を打ち返す事しかできなかった。何か言葉を出そうとしてもなぜか出てこない。
 俺だけ、何も妹の事を口に出して感情を吐き出す事ができなかった。
 妹がこの世に誕生した時、俺は未熟な子どもでしかなかった。近所を友だちと駆けまわっていたりして、馬鹿餓鬼だった。
 でも、妹が生まれてわずか二年後。乳児の定期検査で、妹に小児ガンが見つかったのだ。当然俺には当時、そんな病気の事なんか知らなかったわけで。それが原因でするようになった親父と母さんの口喧嘩でようやく「ああ、危険な病気なんだな」という事に気づいた。
 でも、小学校の子どもにできる事なんてない。母さんにオムツを替えてあげなさい、と言われれば言われるがままに替えたりもしたが、そんなものは母さんにとってはちっとも役には立たなかったのだろう。
 ある日突然、母さんと親父が離婚した。今になって分かった事なんだが、母さんはどうやら他に男がいたらしい。でもそれは結婚などするつもりはなくて、ただの恋人同士だったらしいんだが、それが妹が生まれて事態が変わった。
 度重なる病院との往復。それに付き添わなくちゃいけないし、家でもちょっとした事で神経質にならないといけない。だから母さんには合わないのだ。
 だから母さんは妹ができてから、家を捨てた。俺と妹、そして親父を捨てて。
 そう思ってみると、妹が可哀想でたまらなくなる。俺は必死に涙を堪えようとした。その時だった。

 

 どうして神様はこんなに素直な子を連れて行ってしまったのかね、と年老いた老女が静かに言った。
 その言葉はまるで神を恨むような強い語気を含ませている。
 誰もが老女の言葉に賛同し頷き涙を流し合っている中、なぜか俺はまったく別の事を考え初めていた。涙も、消えた。
 親族達から離れるように畳の上で正座している親父の姿。
 茫然と座っている姿に、普段なら苛立ちすら感じていたかもしれない。でもなぜかそんなものは感じなくて、ただ悲しい気持ちに包まれた。

『親は大切にしろ。……一度よく自分を見つめてみる事だな』

 こんな時に、橘の言葉が思い起こされた。だからいつもと違う、真っすぐな心で親父を見つめられる。これは一体なんだろうか。
 そんな事を考えている内に、胸の内に溢れるような悲哀が襲ってくる。
 妹へ、対してじゃない。もちろん、俺自身に対してでもない。
 親父に、対してだ。
 この中で一番可哀想なのは、妹でもなく俺でもなく親父なんじゃないだろうか。
 母さんに捨てられ、それでも必死に父親として頑張ってきた親父。妹の看護にも尽力を尽くして、しかも俺に対しても愛情を降り注いでくれた。親父が愛したのは何よりも子どもたち。その子どもが今は死に、そして俺も親父に冷たく反抗する。
 ああ、馬鹿だ。
 そう、俺は自分を呪った。
 自分ばかりが可哀想だと思い続けていた事に、心の底から悔やんだ。

    8

「妹が死んだ」
 夕日の光が俺を眩しく照らし出し、思わず俺は目を細めた。
 まだ校庭では運動部の生徒たちが部活動に励んでいる。俺たち三年は受験生だという事で夏休み前には引退する決まりになっているので、部活はもうやっていない。 
 何かに解放されたような気分だ。まあ、俺の勉強量に変化があるわけじゃないんだけれど。
「らしいな」と橘は静かな声で言う。
「葬儀にアンタ、来てたな」
 妹が死んだ二日後には葬儀が開かれ、式場には親族や妹の関係者が多数参列していた。俺ももちろん参列していて、ずっと親父の隣で参列者達に忙しく頭を下げていた。
 その中には橘の姿もあった。
 言葉は一言も交わさなかったが。
「アンタの喪服、なんか似合わなかった」
「喪服の似合う男になってたまるか」
「だな」
 橘の言い返しがなんだか面白くて、俺は久しぶりに笑った。
 ここ最近、俺の周りは奇妙な静けさを保っていて、とてもじゃないが笑いだせる雰囲気じゃなかった。
「どう思った」
 突然の問いはいつもの事。
 どうせ橘は俺の答えに期待しているわけじゃない。だからありのままの事を話す事にした。
 俺はゆっくりと葬儀中や通夜での出来事で感じた事、考えた事を思いのまま喋り出した。
「実感ないな、って思った」
「そうか」
「葬式の時はただ慌ただしくて、あんまり考える暇なんかなかったんだけど、通夜の後にな、親父とゆっくり話す機会があったんだよ」
「そうなのか?」

 

俺はあの通夜の後、親父にこっそりと話しかけた。俺から親父に話しかけるなんて滅多にない事だったから、相当親父は驚いたらしい。
 俺と親父はリビングのダイニングテーブルで向かい合い、俺から話を切り出した。
「ごめん、親父。俺が間違っていたよ」
 そう言って、俺は頭を下げた。
 いきなり俺が謝り出すから、親父は最初は言葉も出なかったようでしばらく重い沈黙があった。時計の刻む音だけが部屋に聞える音だった。
 しばらくして、親父もいた堪れなくなったのだろう。何度も咳払いしてから、慎重に重々しく口を開いた。
「ごめん……というのはどういう意味だい?」
「俺が、親父に今までたくさん迷惑をかけていた。その事だ」
「迷惑……? お前は私に迷惑なんて……」
「かけてた!!」
 突然俺が大声を上げるから、親父の肩がびくっと動いた。
「俺は親父に酷い事をたくさん言ってきた。親父の事なんかこれっぽっちも考えずに、好き勝手に色々と……」
 今思い出してみるだけで鳥肌が立つほどの、暴言の数々。俺は自分自身に激しい怒りを感じていた。
「親父の事、他人とか、アンタ、とか……色々言ってきたっ!」
 ついには堪え切れずに、涙がポロポロと零れて、強く握った拳の上に落ちた。
 俺のあまりに激しい剣幕に親父は何て言っていいのか分からないのか、困った、という顔をした。
「あれは、私も悪かったんだから……」
「でも、親父の方が辛い思いたくさんしてきたのに……。俺はいつでも自分が一番不幸だと思い込んでいた。母さんに捨てられてから、俺はどこかが弱くなっちまったのかもしれない。だから、親父の心にも気づいてやれる事ができなかったんだ。親父が俺をどんなに愛してくれていたか……っ!」
 最初は目を何度も瞬きさせて、状況が上手くのみ込めていなかった親父だったけれど、俺の真剣さがようやく伝わったのか、それとも最初から分かっていたんだけれどもどう返事すればいいのかに迷ったのか、親父は真剣な、真摯な目で俺を見つめた。
 俺も見つめ返す。
 今までの謝罪と、精一杯の誠意を目に焼き付けて。
「……確かに、私もお前に色々と言われていた時は、辛く悲しかった。母さんがいれば、こんな事にはならなかったんじゃないか、と何度も思っていた」
 だが、と親父は言った。
「でも、違うんだよな。母さんがいたって、あいつはいつか私たち家族を見限っていた。だからしょうがないんだ。過ぎ去った事を思っていても、何にもならない。……だから、今日お前が言ってくれた言葉に救われたような気がしたよ」
 そう言って、親父は優しく笑った。
 俺は涙が止まらなかった。あんなにも親父を傷つけ、罵っていたのにこんなに簡単に許してくれる親父の愛情の深さに、号泣した。
 うずくまって泣く俺に、親父は何も言わずに立ち上がり俺の真後ろまでやってきて、俺を後ろから抱き締めた。こんなの、いつ以来だろう。
「泣くな」
 その声は、誰よりも優しかった。
「……これから、幸せになればそれで全部救われる」
 親父も。
 俺自身も。

 
次でラストです。

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