3
関係、と呼ぶにはあまりにも薄く、味気のない付き合いだった。
橘は部員が全員帰宅した後もしばらく家庭科室に残っている(橘が言うには授業中&部活中に書いていた文章に推敲を加えているらしい)。
家庭科部の部活が終わるくらいには、全部活がちょうど終わる時間で、俺の入部しているサッカー部も例外なく終了となる。
その頃になるとだいぶ日も落ちてきて、辺りは薄暗くなる。校舎の中には少人数の生徒と教師が残っているだけで、昼間とは比べ物にならないほどに閑散としていた。
そんな夕方の学校を俺は静かに歩き、家庭科室のある三階へと足を運ぶ。
部活動が終われば、以前はすぐに自宅へ帰宅し寄り道などしなかったが、最近はなんとなく、気が向いた時だけ橘のいる、家庭科室へと足を運んでいいた。
一か月に一度の時もあるが、一週間に一度の時もある。だいたい俺の気分で行ったり行かなかったりを繰り返していて、今日はたまたま二週間ぶりに橘の元へ訪れてみようとした。
どういうわけか、たまたま橘と無性に顔を合わせたくなる時がある。それは一体、どういう事なのかは分からない。だけれども、例えば心が虚しい時だとか、悲しい時だとか、そんな事があると橘の元を訪れてみたくなるのだ。
三階の西側の奥に家庭科室はある。
俺はノックもせず声も掛けずにドアを開けた。
俺の来訪に気づいた橘は軽く顔を上げたが、すぐに視線を手元へと戻してしまう。いつもの事だから橘はあんまり、俺の存在を気にしてはいないらしい。
俺も慣れた。
俺は決まって窓際の一番教卓から離れた後の席へと座る。椅子に座るんじゃなくて、机の上に腰を掛けて何をするでもなく、沈んでゆく夕日の微かな光を眺めているだけだった。
燃えるような色を放つ遥か地平に見える夕日。
ゆらゆらと夕日が蜃気楼のように揺れているように俺には見えた。綺麗というよりは、強烈な光と色。たまにこうしてゆっくりと目で見つめているだけだが、それでも日によって姿形を変える。
俺と橘は言葉を交わす時もあれば、一言も交わさない時もある。別に会話をしに家庭科室まで来ているわけじゃないし、橘から話を振ってくる事も滅多にない。
だから橘から口を開き言葉を出した事に、俺は少し驚いた。
「辛そうな顔だな」
「……どうして」敬語などというものは、出会って一日目にはすでに消えていた。
「そう見えたからだ。根拠などない。お前もそうだろう」
橘の目は一度俺を見すえただけで、すぐに視線は手元の白い紙へと戻ってしまう。
「根拠はない……か」
「そうだ。いつだって物事には根拠などない」
橘が静かに言った言葉に、俺は何か胸打つものを感じていた。
万年筆独特の紙を擦るような音が聞こえる。
どうやら今日は筆のノリがいいらしい。よくない時は(橘はネタがない、と言う)不気味なほど静かな音が空間を埋め尽くすのだ。
「詩人みたいな事言うな。アンタは」俺は思った事をそのまま口にした。
「これでも昔は小説家志望だったからな」
「アンタが? なんか意外だ」
口に出しては失礼極まりないと思うが、橘が何かに情熱を燃やしていたり、目標を持っている姿があまり想像できるものではない。
「誰だって若い頃は何かを強く思うものだ」
「アンタだってまだ若いだろ」そう口に出しておいて、一緒に小さな笑い声も漏れる。
「そうか?」
確か橘が最初に俺たちのクラスの教壇に立った時、軽く自己紹介を(淡々とした声音だった)し、その時に年齢を確か言っていたはずだった。
詳しい歳は覚えていないが、三十代前半である事は橘の容姿からもうかがえる。
「アンタだってまだ、何か強く思ったっていいんじゃないか?」
そんな橘の姿は想像できないんだがな。
橘はしばらく口を噤んでいたが、しばらくしてから突然、声を上げて笑い出した。
「ふん。それよりお前が何かに夢中になったらどうだ」
「……言うね」
俺が毎日無意味に、そして荒れた日常を過ごしているのを知って、橘は言っているのだ。
まあそれが教師の役目なのかもしれんが、少しだけ歯痒く思う。
でも不愉快でもなくウザったらしく、感じないのは相手が橘だからなのだろうか。
今でも、あまりよく理解できずにいた。
4
「…………」
久しぶりに親父が家に帰って来ると思っていたら、そのあまりにもだらしない格好と顔に俺は意識せずとも溜息が出た。狭いソファーを占領するかのように、ベッド代わりに身を横たえ周囲にはビジネススーツや仕事の書類が錯乱している。
片付けるのはどうせ俺だ。
「父さん。寝るなら二階で寝てくれ」
ここはリビングで寝室ではない。俺はこれから飯にしなければならないし、そのためには台所で料理をしなくちゃいけない。
早く飯を食べないと運動部所属の俺の腹はもってくれないし、何よりもだらしなく寝転ぶ親父の姿を見るとものすごく不愉快な思いになる。親父はあまり大柄とは言えない小柄な体をゆっくりと上げて、俺の姿を目で捉えた。
間抜けに開いた口、焦点の合わない黒い双眸。ぼさぼさに乱れた髪……。
どうしてかはよく分からないが、無性に親父の姿に苛立つ俺がいた。
「帰ってたのか……」
「気付いていなかったのか。……馬鹿だな」
俺はわざと酷い言葉で親父を罵り、思わずほくそ笑む。
「っ……! 実の父親に向かって馬鹿とはなんだ」
親父の、疲れた中年とでも言える顔が微かに歪む。
俺は親父をじっと見すえ、笑いが込み上げてくるのを必死で耐えた。
「実の父親?」
今さら何を、白々しい……と苛立ちは増すばかりで、言葉にも怒気が強まっていく。
「血は繋がっていても、他人だろが。俺はアンタの事を父親だと思ってない。アンタも俺を息子だと認めてない。血だけの関係だろうが」
吐き捨てるように、俺は言った。
なぜか、胸が痛んだ。
「そ、そんな事はない! 私はお前を実の息子だと思っている! 何よりも大切な愛しい息子だとっ! なんでそんな悲しい事を言うんだっ!」
親父の言葉に偽りの言葉は何一つとしても、ない。
分かっている。
だが、俺は苛立ちしか感じず思わず全てを吐き捨ててしまいたい……そんな強い衝動に駆られてしまう。
息を小さく吸って、声のトーンをわざと下げた。
「黙れよ。母さんに捨てられたクセに」
「――っ!!」
親父はまるで固まったかのように、ただ、突っ立っていた。その顔は青くなっていて、俺も言ってから、なぜか悲しくなってきた。
お人よしで間抜けな親父はすぐに母さんに捨てられた。
母さんは元々キャリアを積んだエリート公務員だったのに親父の強い願望で仕方なく家庭に入った。
そんな母さんが主婦なんて退屈極まりない、ダメな夫に尽くすだけの仕事にすぐ飽きるのは当然の事だったのだろう。来年小学二年生になる妹を産んですぐにこの家を出て行ってしまった。
まだ、相手がしっかりとした性格で決断力を持つ男だったら離婚なんてものはしなかったに違いない。
だが親父は家長としての能力全てに欠ける。優柔不断で決断力などなく、公務員だから一家を養う事はできるが仕事で大した功績を残してくるまでもなく。母さんにとって親父は「物足りない」夫だったのだ。
「お前は凛子に似てるな……。性格も態度も全て……」
と、親父はまるで何かに詫びているかのように小さな、それも耳を立てていないと聴き取れないような小さな声で、ポツリと漏らした。
俺は思わず、何をどう言えばいいのか分からずに、しばらく考えを巡らしていたが、胸の奥でする色々な感情の渦に呑み込まれそうで、怖かった。
自然と息も苦しくなる。
だが、俺にはこの感情を押し殺して言わなくちゃいけない言葉があった。それは自分の心を否定して、鬼のような言葉を。
「何? まだ母さんが惜しいの?」
言ってから、後悔する。ああ、なんて事をしてしまったのだろうか……。だが、いつもと同じ事なのだ。本当の事を言えず、いつも馬鹿な事ばかりやっている。
俺は親父を恐る恐る見た。
手が震えていた。
――だが。
親父は何も言わなかった。
ただ悔しそうに下唇を強く噛み締めているだけで。その姿に俺はどういうわけか、泣きそうになっていた。
どうして、素直になれないのだろう。
その場にいつまでも居ても居た堪れない気持ちになってしまうから、俺はまるで全てから逃げるかのように自室へと走って逃げた。
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