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SS



あの人がいなくなって、何年の月日が流れただろうか。
私の部屋の本棚の上に置かれているあの人の写真は、あの頃と変わらず写っていた。何も変わらずに、風景でさえあの頃と同じように。
変わってしまったのは、激流のような日々を過ごしてきた私だけで。
何故だか、取り残されてしまったような感覚がした。

あの人は私を愛してくれて、不器用な私の精一杯の言葉を優しい笑顔で受け止めてくれた。
心を閉ざしていた私と、いつでも明るくて優しいあの人。
正反対の私たちは、どこか惹かれあっていたのだろう。どちらが告白するまでもなく、私たちは付き合い始めて。あの人と過ごした、夜空に一つだけ浮かんでいる一番星のような日々に、私は意味もなく浮かれていて。
あの人に甘えて過ごしていた。

だけど、あの人は死んでしまった。
私の悩みはたくさん聴いてくれていたくせに、自分の悩みなど一度も私には相談してくれなくて。一人で抱え込んで、あの人は一人孤独に死んで行った。
自らの喉元をナイフで突き刺して。
……私はただ、甘えていただけなのだ。
自分の話ばかりをして、自分勝手に振る舞って。
あの人の心の闇を、受け入れる器がなかったのだ。
あの頃の、弱い私に誰が悩みを打ち明けるのだというのだろう。
心は脆弱で、甘えてばかりの私にあの人はひっそりと暗闇を隠して。
幸せそうに笑っていた私の陰では、あの人は辛そうに泣いていたのだ。

ああ、なんであの時に気付けなかったのだろう。
私の甘えが、どれだけあの人を傷つけていたのだろう。
……今更後悔しても、遅い事はわかっている。
後悔したって、あの人は生き返らないのだ。
だから、私はあの人の最後の言葉を胸に抱えて生きて行くしかないのだ。
あの人が死ぬ直前に、私の携帯に送られてきた一通のメール。

『前を見て。
そして、笑って。
強く、生きて』


死ぬ、直前まで私の事を思っていてくれたあの人の事を思い返すと今でも胸が痛む。
時々、泣いてしまう。
だけど、私は生きていくしかないのだ。
流れるような、早い時間を越してきた私は、昔よりは強くなれたと思う。
あの人の、横に立てるくらいは。

強く、生きる事はまだ無理かもしれない。
あなた、という存在が私の心の空洞に存在し続ける限り。
でも私は、あなたを忘れる事はできない。

私があなたを思い続けている限り。
私が、笑って幸せに生きていくために。

私はあなたを、忘れる事などできないのだ。

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毎日

 


かつて私には恋人と呼べる存在がいた。
かつてという言葉には過去形を含むから現在私には、恋人はいない。大学の友人たちにはだいたい彼氏か彼女がいて、なんだか私だけ取り残されているような気がするけれども、今現在、私には新しい恋人を作る気はない。
別に異性に魅力を感じないとか、同性しか愛せないとか、そういうわけで作らないんじゃない。
昔はそれなりに異性に関心を持っていたし、男性に体を抱かれる事も何回かあった。だけど気難しい性格の私は、あまり男性側にとっては魅力的な存在ではなかったらしい。だいたい付き合って三ヶ月もしない内に男性側から別れを告げられて、その度に私は不機嫌になって私を振った男の顔面を殴りつけてやる事も一度はあった。
そのくらい気難しく、そして荒々しい私に近づいてくる男など大学に入学して半年も経たない内に一人もいなかった。
だから私は諦めていたのだ。
私を理解してくれる男なんかいない、私の全てを受け止めてくれる男なんていない、と。だけど神様は何を思ったのか、それとも何も思わずにただ私をからかいたかっただけなのか、クリスマスイブの日に私をある男に会わせてくれた。
それは文芸サークルのクリスマス会。
私は本こそは読むが、自ら小説を書いたりはしない。だから無縁のサークルだった。というか、集団で行動するのが大嫌いな私はサークルそのものを毛嫌いしていて、どこにも所属していなかった。
だから文芸サークルの友人からクリスマス会に誘われた時、私は断ろうとした。だって文芸サークルで顔見知りなのは私をクリスマス会に誘ってくれる友人だけだったし、あまり大勢の集まった場所で長時間居続けるなんて苦痛でしかないのだから。
だけど、文芸サークルの友人は私を強引にクリスマス会に連れて行こうとした。「大丈夫、人はそんなに多くないから」という友人の言葉を半信半疑で信じて、嫌々ながらもクリスマス会に参加する事になったのだ。



場所は大学でもカラオケ店でもなくて、コーヒーの香りが店内に充満している小さな、だけどお洒落な喫茶店だった。
店内の配色はだいたい黒で統一されていて、木造作りのディスクや手作り感漂うチェアがあって少し暗いようなイメージを受けたけど、落ち着けるお店だと思った。
文芸サークルのメンバーは店内の一番奥の、十人くらいが向き合ってコーヒーを飲める席に全員揃って座っていた。
どうやら最後に来たのは私と友人みたいで、開いている席に小声で「お邪魔します」と言いながら座った。友人は私の隣の席に腰かけ、バッグは床に置いていた。私も友人に習い、白い布でできた手提げ袋を床に置くと、私は周囲を見渡した。
文芸サークルの面々は友人が連れてきた私に多少の興味を持っていたようで、学年を聞かれたり、好きな作家の名前を聞かれたりした。みんなが落ち着いた雰囲気で、和やかに好きな作品を語ったりただの雑談をしたりしているから、私の緊張も解れてすんなりと文芸サークルの人たちと解けあうことができた。
コーヒーと簡単な食事が出てきて、ますます会話は盛り上がっていく。私もコーヒーを飲みながら雑談に加わっていたのだが、次第に飽きてきた。
私の悪い癖で、すぐに何でも飽きてしまう。
でもだからと言って、途中退席するのはあまりにも無礼だし、私は会話にはあまり口を挟まずにみんなの会話に適当に相槌を打っていた。
しばらくそうしていると、唐突に私に話を振ってくる青年がいた。今までずっと黙っていたから、私はその存在を忘れかけていた。それはサークルの人たちも同じようで「今日初めてお前の声を聞いたよ」と苦笑いを零している人がいたくらいだ。
「君はどの小説が好きだい?」
優しくて、年よりは落ち着いた声音だった。
「えっと、さっきも言ったと思うんですが……」
どの作家が好きだとか小説が好きだとかは最初に散々聞かれた。だから今更答える必要なんてないと私は思って、青年のこげ茶色の瞳を見つめた。
「いいや、そうじゃない。僕が聞きたいのは、どうしてその小説が好きなのか、どの部分がどうして好きなのか、っていうことだよ」
あまり深く考えずにいつも読んでいる作家や作品の名前を上げていた私は、少し戸惑った。好きなシーンや感動した台詞は思い出せる。だけど、どうしてその小説が好きなのか、と聞かれると具体的に答えることができなくなる。
「……それは、色々と考えさせられる本だったからです……」
と私は苦し紛れに答えたが、青年の優しい瞳にはその回答に納得していないようだった。
「社会性をテーマにしている作品はたくさんあるよ。なのに、どうして君はその作品が好きなんだい? 何か理由があるのかい?」
「えっと、その……」
返答に困る私を見かねてか、文芸サークルの部長さんが「おいおい」と私と青年の間に割って入ってきてくれた。
「サークルメンバーでもない彼女にそんなに問い詰めるなよ。彼女、困惑しちまってるぞ?」
「僕は別に問い詰めているつもりはないんだけど……」
「お前にはその気はなくても、そうなんだって。お前いい加減その無意識に人を問い詰める癖なくせよな」
呆れたようにサークル部長はため息混じりに言った。だけど青年はちょっと不服そうな顔をして、私と部長を見比べている。
青年の目は私を優しく見据えている。だから青年にしてみては、私を別に問い詰めているわけじゃないのだろう。私はそれを青年の目で理解した。
「……私がこの小説を好きなのは、自殺を否定も肯定もしていない作品だからです」
これが精一杯の答えだった。
「おいおい、無理して答えなくてもいいんだぜ?」
と部長さんは言ってくれたが、青年は私の答えにどうやら満足してくれたみたいだった。目がすっと細めらて、私を真っ直ぐと見つめている。


……これが私と彼との初めての出会いだった。
その時にはまだ、お互いをそんなに意識していなかった。だけど、あのクリスマス会以来私はよく文芸 サークルに招待されることがあって、その度に彼と親密な仲へとなっていった。
……恋人と呼べるくらいの、親密さに。

彼は私より一つ年上で、都内のマンションに住む英文科の生徒。私は民族文化を専攻しているから、あまり講義で出会うことはなかったけど、彼と付き合い出してからは私はよく彼のマンションに行ったりした。
彼が私の家に来ることは、一度もなかった。
私は両親と暮らしているから、彼氏なんて連れて中々連れてこれないし、何よりも私の両親は今時珍しい厳格な両親だったから、とてもじゃないけど、彼を連れて来るなんてできなかった。
まあ、それでも彼のマンションに行ったり、彼と些細なデートを繰り返していたあの日々はとても幸せで温かいものに包まれていたような気がする。気がする、じゃなくて絶対そうだった。
両親からは受けられなかった、無条件の愛情を彼は私に注いでくれていたし、彼の傍にいると私の荒れた心も癒されているような気がしていた。

毎日が楽しくて。
毎日が幸せで。
毎日が嬉しかった。

だけど。
彼はいなくなってしまった。
私の前から、姿を消した。いや消したという表現は、不適切だ。彼は消えてしまったんじゃない。死んでしまったのだ。
それも、自らの手で。

あの日はとても冷たい雨の降る、まだ梅雨明けを迎えていない六月の中旬で、私は家にいた。両親は両方とも仕事で家にいなくて私一人だけが、無駄に広い家にいた。
彼に勧められた小説を自分の部屋で、ホットコーヒーを飲みながら読んでいたのだ。四日前に文芸サークルで「この本お勧めだよ」と手渡されたのはイギリス文学の古典で、原文なんてとてもじゃないが私には読めないのを彼は知っているから、お勧めの翻訳家が翻訳した本を私に貸してくれた。分厚い本で難解なテーマが描かれている作品だけれども、翻訳家の読みやすい翻訳のお陰でスイスイとはやいペースで本を読むことができた。
だから私は本に熱中していて、携帯に電話がきていたことにまで気づけなかった。ようやく電話に着信があったのに気づいたのは、ちょうど本を半分くらいまで読んでいい区切りだからと本を閉じた時。最初の着信から二時間も時間が過ぎていた時だった。
携帯を何気なく手に取り、メールの確認でもしようとしていたら着信が友人から三回もかかって来ていたことに気づき、慌てて友人に電話をかけた。
するとすぐに友人は出て、開口一番に彼が今日の未明に、彼のアパートで死んでいたことを早口で私に告げた。
私は最初、何かの冗談だと思ったが友人の険しい口調と迫力に、ようやく私は事態の重さに気づくことができたのだ。
私は動転しながらも友人にこれから私はどこに行ったらいいか、と尋ね友人は「彼の実家に彼の死体が運ばれている」と答えて、私は友人に彼の住所を聞いてからすぐに身だしなみも整えずに家を飛び出た。

彼の実家に電車で乗り継いで辿り着いたのは私が家から飛び出して一時間後、午後四時半のことだった。彼の実家は私たちの住む県の隣県にあり、辺り一面が田園風景という結構な田舎町にあった。
彼の実家は中々に古風な造りの家で、昔ながらの家というイメージを受けた。門にはたくさんの彼の親戚や友人の車が止まっていて、たくさんの人が出入りしている。私もその中に混じりながら、玄関にお邪魔して、玄関で客人を接待している、おそらく彼の母親だろうと思える人に私は話しかけ、私と彼との関係を簡潔に、そして少し取り乱しながら話した。
すると彼の母親はすぐに何もかもを理解してくれて、彼の遺骸が置かれている和室へと通された。
「…………」
たくさんの人の声が絶えず聞こえる声もただの雑音に聞こえてくる。
彼の遺骸は、和室の部屋の一番奥に安置されていて私はそっと近寄り彼の顔を窺い見る。彼ではないように、という淡い思いを浮かべながら。
だけど、現実はあまりにも残酷過ぎて。
彼の遺骸は冷たくて、まるで人形のようだったけれど、彼の表情はどこか幸せそうに見えた。
「うっ……」
私はその場に泣き崩れ、悲鳴のような泣き声を上げた。
すぐに私を呼んだ友人や、彼の母親が駆けつけてくれて私を必死に慰めようとしてくれたけど、取り乱した私はずっとその場で、彼の亡骸に抱きついたまま、離せずにいた。




それからの記憶はあまりない。
淡々と何かが通り過ぎて行った。
彼の両親から彼の幼い頃の話を聞いたり、彼が今日の未明に薬を大量に飲んで自殺したこと。その他にはこれからの通夜や葬儀の日時のことなんかを聞いたりした。
でもボーっと、気力も何も失った私にはそんなことはどうでもよくてただ涙を流しながらそれを聞き流していた。
だが、彼の母親が思い出したように言った言葉に私は顔を思わず上げた。
「そういえばあの子の遺品の中に日記帳みたいなのがあったわ。私も気が動転しちゃっていて、今まで忘れちゃったけれど……。ちょっと待ってて、持ってくるから。あなたなら、見る資格があると思うし」
それから手渡された日記帳を私は家に持ち帰り、落ち着くまでそれを見ることができなかった。度胸がなかったのだ。
彼の日記を読めば、彼との毎日を思い出してしまう。それは酷く辛いことだったし、どうして彼が自殺なんてしたのかも分からない。
もしかしたら彼にはその兆候があったのかもしれない。
自殺する兆候が。
だけど、それに私は気づいてあげることができなかった。それが悔しくて、悲しくて。彼が自殺して、三ヶ月経つまで私は彼の日記帳を開けることができなかったのだ。

彼の日記は彼が高校を卒業した日から始まる。
最初はただその日何を読んで、どう過ごしたかを書いてあるだけで日記というよりはメモ帳みたいに感じたけど、ある日を境に彼の日記は大きく変わる。
味気のない、メモ帳みたいな日記帳からまるで恋愛小説のような優しい文体に変わった日。それは……私と彼が初めて出会った日、半年前のクリスマスの日からだ。
それからの彼の日記は私のことばかり書かれていて、それのどれもが愛に満ち溢れていた。
私が笑うときにできる笑窪が可愛いとか、そんなことばかりが書かれていて。 
私は泣きながら彼の日記を読んだ。
彼が自殺してから三ヶ月もの間、私は何も考えずただ怠惰に時間を過ごしてきた。彼が死んだ事実を認めたくなくて、彼から電話がかかってきてくれるような気がして、一日中彼からの電話を待った日もあった。
だけど、そんなものは来るはずもなくて。
だから私は何故彼が自らの手で生涯を終えようとしたのか、探ろうとした。それがもし私が原因で自殺したものでも構わない、と思いながら。
とにかく彼を感じたくて彼の日記帳をまるで分厚い本を読むように読みふけった。
でも、結果は分からなかった。
彼が死ぬ直前に書かれた日記にも、自殺を示唆する言葉とか遺書とか、恨み言とか、そういう物は一切書かれておらず、日記帳の最後のページにはたった一行だけ、紛れもない彼の優しい文体で書かれてあった。

"大好きな君へ。今までありがとう。ごめんね。"

――君を愛しているよ、永遠に。

優しい優しい文字で、優しい優しい言葉を最後に残した彼。
どうして自殺なんてしたのか、今でも分からない。

君を愛しているよ、なんて言ったってあなたはもういないじゃないの。
私はあなたの全てを分かっているつもりだった。だけどそれはお門違いで私は彼をまったく、これっぽっちも理解できていなかった。
最後まで彼は私を傷つけまいとしてわざと真実を語らなかったのだ。
……それすらも理解できずにいた私は、本当に馬鹿で。



どうして彼が自殺したのか。
それは彼が誰にも語らず、両親にすらも話していなかったから誰にも分からない。もしかしたら大学でうまくいっていなかったのかもしれないし、精神病を患っていたのかもしれない。
だから私は私は彼が自殺して、半年経ってもその真実を知ることはできない。これからもできないだろう。
だが、以前彼に勧められて読んだ本の言葉にこんなことが書かれていた。

"人は死にたいから死ぬんじゃない。
本当は生きたいのに、生きていけないと思うから死ぬんだ。"

もしも過去に戻って彼とやり直せたら。
そんなことは何度も思った。でも思う度に馬鹿らしいと笑いながら、涙を流し続ける。これが彼を最後まで理解してあげられなかった私の罪だと思って。

あなたのいない毎日は曖昧で、無味乾燥としていて。
あなたが死んでから私の毎日は色を失って。
あなたがいない毎日。でも「毎日」は無理やりにでも私を引っ張っていこうとする。私の心なんて無視して。
私の視界は灰色に濁って、窓の外の晴れた空を見つめる。
悲しい毎日は終わることがない。

あなたのいない毎日なんて、毎日じゃないよ…・・・。

「あなたのいない毎日なんていやだよ」

虚空に呟いた声は空しく、新しい毎日に切り裂かれて消えた。


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最期の先生05

  通夜の夜にあった事を全部橘へ話している内に、だんだんの胸の奥が温かくなってくるような気がした。
 橘は俺の話に一々相槌を打ちながら、真摯に話を聞いていてくれた。こんな事はかつてなかった事だ。
 俺の話を聞く橘は、いつもなら聞いているのか聞いていないのか分からないような聞き方だったのに。
「そうか」と全部が話し終えると、橘はそっと席を立った。
 そして微笑みながら俺の隣の机のテーブルへと腰を落とした。
 俺と対等に目線を合わせて橘と話をするのは、もしかしたらこれが始めてなのかもしれない。
「お前は、救われたんだな」
 その言葉はどこか、憂愁の響きがあった。
「葬式っていうのはどんなもんだ?」と橘は尋ねる。
「どんなものって……」
 何から言えばいいのか、よく分からない。
「骨を見たんだろう?」
「まあね」
「どう思った?」
 火葬場で、骨となった妹。かつての面影なんか微塵もなくて、凄く虚しい気持ちになった。
「実感ないな、って思った」
 人が死んだ実感。俺はまだ、感じられていない。
「そうか」
「今でも妹が生きているんじゃないかって……馬鹿な話だけど、思う」
 橘は微笑んで聞いていた。橘の視線は、窓の外を見つめている。
 何度も二人で見た、夕焼け。
 俺にはちょっと、いつもと違うように見えた。いつもより綺麗で、美しくて、優しい。そう俺には見えた。
「俺だって何度も思って来た事か。人の死は……心を乱すな」
「……アンタだって辛いんだろ?」
 俺は家族を失った。
 橘は家族となるはずの人を失った。
 比べられるものでは決してない。それでも俺の目には橘が悲しく映る。
 あの日、妹が死んだ日の親父と同じように。
 表情には出していないのに、何故かそう感じた。
 橘は口元を緩める。
「愛を失ったわけじゃない」
 そう突然言った。
「……?」
 小さくともしっかりとした声で橘は囁いた。夕日に照らし出される橘の横顔は哀愁に満ち、そしてひどく穏やかだった。
 なぜだか分からないけれど、嫌な胸騒ぎがした。
「桃子が死んでも――。俺の傍に居なくても。
 俺は桃子の事を愛している」
 今まで橘が愛だの恋だのを話しているのに激しい違和感を感じていたけれど、今の橘にはそういう違和感がない。
 あまりにも真剣で、あまりにも穏やかだから。
 もしかしたら誰よりも似合っているかもしれないと、俺は思う。誰よりもはっきりとした言葉で率直に想いを伝える。中々出来る事じゃない。
 クサイ台詞だろう? と橘は俺に苦笑混じりに言った。
「……立派だよ。アンタは」
 俺は素直に橘を讃える。俺には何年もかかってようやく辿りつけた事だったからだ。
「立派? 俺の何処がだ」
「素直言えて……さ。想いを伝えられて」
 かつての俺だったら羨ましい、と思うだろうな。
「…………」橘は深く溜息を吐きながら肩を落とす。
 まるで出来の悪い生徒に呆れているようだ。
「――言葉の本来の意味。
 それは意思を伝えるためにある」
 橘の言葉はまるで、子守唄のように優しい。
 声音が優しいだけじゃない。
 優しい言葉を放つ橘の顔も――穏やかだった。
 まるで、殺される事がわかっていても穏やかに過ごし続けたイエス・キリストのように。
「そういう俺だって……桃子の生きている時、伝えらなかった……」
 だからと。橘は俺の頭を大きな手の平で撫でた。
「後悔しまくりの人生だ。でもそれでいい」
 手を離して橘は窓の外へ振り返る。
 光が橘の黒い双眸を輝かせオレンジ色の線は橘の元だけを照らし出した。
「俺は行かなければならない」
 
桃子の元へと。

しっかりとした声で橘は言うと、白いシャツの胸ポケットから青色の細長い何かをを取り出した。目覚ましの針を手動で回すような、そんな音が教室に響いた。
 青くて細長い銀色の刃がゆっくりと伸びる。一度も私用された事がないのだろうか、綺麗に研がれたままで鋭く白く、光っている。
「馬鹿だろ? でも、これしかできない。心が……休まらないんだ――」
 橘は光る刃を口元に当ててそして天井へと高く突き上げた。橘の瞳が俺を見据え薄紫色の唇は細く弧を描かれた。
「最後に言っておく」
 囁くような静かな声で――いつものように落ち着いた――橘は言った。
「これで授業は終わりだ」

(我が教え子よ、これが別れだ) 

 授業で生徒達に指導する時のみたいに、やる気のない面倒臭そうな調子で橘は言うと、突き上げた両手を一気に振り下げた。握られていたカッターナイフが、橘の喉元を真っすぐと射抜く。
 何とも表現できないような奇妙な音が耳に聞えて、橘の両手は一瞬の間に真っ赤に染まった。
 深く橘の喉を射抜いたカッターは、橘が後ろから倒れた瞬間に床に転がり、カッターの金属的な音と橘の肉体が倒れる音が同時にした。
 喉元から大量に流れる血は、橘の手元や胸元を濡らし、教室の床や窓にまで飛び散っていた。  
 橘が倒れた音を最後にして家庭科室は奇妙な静けさに包まれた。俺の足元には橘がうつ伏せで倒れている。
 これは一体どういう事だ?
 そんな疑問を持っても、もう答えを返してくれる橘は絶命していた。
 俺は怯え震える体に鞭を打ち、橘の亡骸へとしゃがみ込み橘の左手の手首を掴む。脈があるなんて思ってもいなかった。実際、脈なんて打っていなかった。
 どう手当てしても、誰を呼んでも橘は助からない――帰って来ない。
 そんな事だけがこの状況で理解できる、ただ一つの事だった。
 橘は最愛の人を守ってあげられなかった事をひどく後悔していた。自殺するほど悩んでいた恋人に気づいてあげる事ができなかった。
 だから山口先生が死んでから、ずっと橘は自分に問い続けてきた。「俺は生きていていいのだろうか」と。
 橘は、橘先生は一体死ぬ直前に何を思ったのだろう。
 自殺する直前まで、どんな感情だったのだろうか。
 理解できない。
 理解できなかった。
 俺がただ理解できるのは、大切な人をまた失ってしまったという深い悲しみと――何かが終わりを告げた、安堵感だった。
「……っ」
 橘先生の手を握りながら、涙がこみ上げてくる。ポロポロと涙が零れ落ち、嗚咽までもこみ上げてくる。
 我慢して抑えられるような涙ではなくて。
 最後まで俺に「大切な事」を教えようとした橘先生の亡骸に寄り添いながら、俺はずっと泣き続けた。
 橘先生が最後まで教えようとした「大切な事」に俺はただ泣き縋りながら。
 声を上げて。


続きを読むで後書きです。


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最期の先生04



 十二月の始まり、生徒達は受験を控え熱気だっている中、俺の家は冷蔵庫の中よりも冷えていた。
 黒い喪服に身を包んだ親族たちが絶え間なく俺の家へと訪れた。誰もが開口一番にご愁傷様、と悲しそうに漏らして誰もが皆、笑わなかった。
 俺の家には小さいながらも一階に和室がありそこに親族たちが集中して集まっている。親族たちに囲まれるように横たわっているのは俺の妹だ。
 ほとんどランドセルに腕を通していない、ピカピカの赤いランドセルが妹の頭上に置かれている。その近くにはご飯や水、ロウソクなどが作法通りに並べられ、無機質な装飾品のような印象を俺は受けた。女性が首にネックレスを飾るのと同じように。
 可哀そうに、誰かの声が静寂に包まれた部屋に響いた。今年で八十になる祖母だ。彼女の目元からは小さな涙が光っている。
 祖母の言葉がきっかけだったのか、親族達は次々に言葉を吐き出した。
 妹の年齢、妹の病気、妹の性格や思い出……。
 俺にも会話が何度か振られたけれども、俺は適当に相槌を打ち返す事しかできなかった。何か言葉を出そうとしてもなぜか出てこない。
 俺だけ、何も妹の事を口に出して感情を吐き出す事ができなかった。
 妹がこの世に誕生した時、俺は未熟な子どもでしかなかった。近所を友だちと駆けまわっていたりして、馬鹿餓鬼だった。
 でも、妹が生まれてわずか二年後。乳児の定期検査で、妹に小児ガンが見つかったのだ。当然俺には当時、そんな病気の事なんか知らなかったわけで。それが原因でするようになった親父と母さんの口喧嘩でようやく「ああ、危険な病気なんだな」という事に気づいた。
 でも、小学校の子どもにできる事なんてない。母さんにオムツを替えてあげなさい、と言われれば言われるがままに替えたりもしたが、そんなものは母さんにとってはちっとも役には立たなかったのだろう。
 ある日突然、母さんと親父が離婚した。今になって分かった事なんだが、母さんはどうやら他に男がいたらしい。でもそれは結婚などするつもりはなくて、ただの恋人同士だったらしいんだが、それが妹が生まれて事態が変わった。
 度重なる病院との往復。それに付き添わなくちゃいけないし、家でもちょっとした事で神経質にならないといけない。だから母さんには合わないのだ。
 だから母さんは妹ができてから、家を捨てた。俺と妹、そして親父を捨てて。
 そう思ってみると、妹が可哀想でたまらなくなる。俺は必死に涙を堪えようとした。その時だった。

 

 どうして神様はこんなに素直な子を連れて行ってしまったのかね、と年老いた老女が静かに言った。
 その言葉はまるで神を恨むような強い語気を含ませている。
 誰もが老女の言葉に賛同し頷き涙を流し合っている中、なぜか俺はまったく別の事を考え初めていた。涙も、消えた。
 親族達から離れるように畳の上で正座している親父の姿。
 茫然と座っている姿に、普段なら苛立ちすら感じていたかもしれない。でもなぜかそんなものは感じなくて、ただ悲しい気持ちに包まれた。

『親は大切にしろ。……一度よく自分を見つめてみる事だな』

 こんな時に、橘の言葉が思い起こされた。だからいつもと違う、真っすぐな心で親父を見つめられる。これは一体なんだろうか。
 そんな事を考えている内に、胸の内に溢れるような悲哀が襲ってくる。
 妹へ、対してじゃない。もちろん、俺自身に対してでもない。
 親父に、対してだ。
 この中で一番可哀想なのは、妹でもなく俺でもなく親父なんじゃないだろうか。
 母さんに捨てられ、それでも必死に父親として頑張ってきた親父。妹の看護にも尽力を尽くして、しかも俺に対しても愛情を降り注いでくれた。親父が愛したのは何よりも子どもたち。その子どもが今は死に、そして俺も親父に冷たく反抗する。
 ああ、馬鹿だ。
 そう、俺は自分を呪った。
 自分ばかりが可哀想だと思い続けていた事に、心の底から悔やんだ。

    8

「妹が死んだ」
 夕日の光が俺を眩しく照らし出し、思わず俺は目を細めた。
 まだ校庭では運動部の生徒たちが部活動に励んでいる。俺たち三年は受験生だという事で夏休み前には引退する決まりになっているので、部活はもうやっていない。 
 何かに解放されたような気分だ。まあ、俺の勉強量に変化があるわけじゃないんだけれど。
「らしいな」と橘は静かな声で言う。
「葬儀にアンタ、来てたな」
 妹が死んだ二日後には葬儀が開かれ、式場には親族や妹の関係者が多数参列していた。俺ももちろん参列していて、ずっと親父の隣で参列者達に忙しく頭を下げていた。
 その中には橘の姿もあった。
 言葉は一言も交わさなかったが。
「アンタの喪服、なんか似合わなかった」
「喪服の似合う男になってたまるか」
「だな」
 橘の言い返しがなんだか面白くて、俺は久しぶりに笑った。
 ここ最近、俺の周りは奇妙な静けさを保っていて、とてもじゃないが笑いだせる雰囲気じゃなかった。
「どう思った」
 突然の問いはいつもの事。
 どうせ橘は俺の答えに期待しているわけじゃない。だからありのままの事を話す事にした。
 俺はゆっくりと葬儀中や通夜での出来事で感じた事、考えた事を思いのまま喋り出した。
「実感ないな、って思った」
「そうか」
「葬式の時はただ慌ただしくて、あんまり考える暇なんかなかったんだけど、通夜の後にな、親父とゆっくり話す機会があったんだよ」
「そうなのか?」

 

俺はあの通夜の後、親父にこっそりと話しかけた。俺から親父に話しかけるなんて滅多にない事だったから、相当親父は驚いたらしい。
 俺と親父はリビングのダイニングテーブルで向かい合い、俺から話を切り出した。
「ごめん、親父。俺が間違っていたよ」
 そう言って、俺は頭を下げた。
 いきなり俺が謝り出すから、親父は最初は言葉も出なかったようでしばらく重い沈黙があった。時計の刻む音だけが部屋に聞える音だった。
 しばらくして、親父もいた堪れなくなったのだろう。何度も咳払いしてから、慎重に重々しく口を開いた。
「ごめん……というのはどういう意味だい?」
「俺が、親父に今までたくさん迷惑をかけていた。その事だ」
「迷惑……? お前は私に迷惑なんて……」
「かけてた!!」
 突然俺が大声を上げるから、親父の肩がびくっと動いた。
「俺は親父に酷い事をたくさん言ってきた。親父の事なんかこれっぽっちも考えずに、好き勝手に色々と……」
 今思い出してみるだけで鳥肌が立つほどの、暴言の数々。俺は自分自身に激しい怒りを感じていた。
「親父の事、他人とか、アンタ、とか……色々言ってきたっ!」
 ついには堪え切れずに、涙がポロポロと零れて、強く握った拳の上に落ちた。
 俺のあまりに激しい剣幕に親父は何て言っていいのか分からないのか、困った、という顔をした。
「あれは、私も悪かったんだから……」
「でも、親父の方が辛い思いたくさんしてきたのに……。俺はいつでも自分が一番不幸だと思い込んでいた。母さんに捨てられてから、俺はどこかが弱くなっちまったのかもしれない。だから、親父の心にも気づいてやれる事ができなかったんだ。親父が俺をどんなに愛してくれていたか……っ!」
 最初は目を何度も瞬きさせて、状況が上手くのみ込めていなかった親父だったけれど、俺の真剣さがようやく伝わったのか、それとも最初から分かっていたんだけれどもどう返事すればいいのかに迷ったのか、親父は真剣な、真摯な目で俺を見つめた。
 俺も見つめ返す。
 今までの謝罪と、精一杯の誠意を目に焼き付けて。
「……確かに、私もお前に色々と言われていた時は、辛く悲しかった。母さんがいれば、こんな事にはならなかったんじゃないか、と何度も思っていた」
 だが、と親父は言った。
「でも、違うんだよな。母さんがいたって、あいつはいつか私たち家族を見限っていた。だからしょうがないんだ。過ぎ去った事を思っていても、何にもならない。……だから、今日お前が言ってくれた言葉に救われたような気がしたよ」
 そう言って、親父は優しく笑った。
 俺は涙が止まらなかった。あんなにも親父を傷つけ、罵っていたのにこんなに簡単に許してくれる親父の愛情の深さに、号泣した。
 うずくまって泣く俺に、親父は何も言わずに立ち上がり俺の真後ろまでやってきて、俺を後ろから抱き締めた。こんなの、いつ以来だろう。
「泣くな」
 その声は、誰よりも優しかった。
「……これから、幸せになればそれで全部救われる」
 親父も。
 俺自身も。

 
次でラストです。

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最期の先生03

  


憂鬱だ。
 毎日が憂鬱だった。
 いつものように苛立ち、退屈だ。昔はあんなに大好きだったサッカーも今では苦痛にしか感じない。どうしてだろうか。部活に何か問題があるわけでもないのに。何が原因なのだろうか。
 俺自身が抱える問題が、サッカーをつまらなくさせているのか? そう考えてみても、何も解決にはならない。
 もしも原因と責任を他人に擦り付けられたら、どんなに楽な事か。アイツに「お前のせいで俺はこうなった」と言ってもいい。でもそれじゃあ、いつもの繰り返しで、何の解決にも、何の意味もない。救いだって、ない。
 じゃあどうすればいいんだ。
 悩んだって俺には問題を解決する能力がないから、意味もない事だ。だから何かが起きるのをじっと、ずっと、胸の痛みを抑えて待っていないといけない。
 でもそれじゃあ、あんまりにも辛くて苦しい。だから俺はやっぱり何かに縋らないといけないんだ。
 親父の事を恨む。そうやっていつも俺は、自分の心を隠していた。
 本当は……。
 好きなんだけどな、親父の事。
 確かにだらしないところはたくさんあるし、一家の主としては頼りない。だけれども、それでも親父は俺たち子どもをいつでも愛してくれていた。それを忘れて親父を憎んでしまう自分が腹立たしい。
 でも、そうでもしなきゃ俺は不安定なんだ。俺の心は母さんが出て行ったあの時に壊れてしまった。
 湧き出てくる感情を止められる事なんかできない。だから、俺はいつでも人任せなんだ。
 結局は自分を憎む事ができないから、親父を恨んで憎くしむ事しかできない、愚かな人間。
 それでも誰かに助けてもらいたいと思う心は、消え去ってくれないのだろう。助けなんてこないはずなのに。
 この甘えた心には。

5・2

夕方、いつものように退屈な部活が終わり、荷物をまとめていた。これから入試に向けて塾に行かなくてはならない。別にそんなにレベルの高い高校を狙っているわけじゃないが、それでもある程度の高校には行きたいから、そのためだ。
 いつも部活のために持参して持ってくる、スポーツドリンクを少し飲んで喉を潤わせて、顔に流れる汗をタオルで拭いた。
 駐輪所には俺の自転車が置いてあるから、駐輪所のある校舎裏へ回ろうとしたその時、突然声を後ろからかけられた。
 すでにほとんどの部活が終わり、生徒たちは帰宅していると思っていた俺は驚いて振り返った。
 すると、そこには一人の小柄な女子生徒が立っていた。
 顔に見覚えがある。確か同じクラスの上の名字がなんとか思い出せる程度で、仲はいきなり声を掛けられる程には良くはない。というか、あまり知らない。
 そして何故か彼女は顔をうっすらと赤く染めていた。
 確か名字は――吉田だ。
 二年の時同じクラスで一度だけだが、席が隣同士だった事があった。
 下の名前は吉田には失礼だが、思い出せない。たった一度だけ隣同士になった吉田の名前をいつまでも覚えられず、だいたいはすぐに忘れてしまう。
 彼女は恥ずかしがりながらも、律義に俺の名前をフルネームで言い(驚いた。まさか覚えてくれているなんて)覚悟を決めたように引き締まった顔で俺の顔をじっと見つめた。
 真摯な目だった。
 何より、近くで初めて吉田の顔を見ていると美人という程ではないが、中々可愛らしい顔立ちをしていた。
 俺の胸の鼓動も、自然と速くなる。
 彼女は好き、だと決意のこもったはっきりとした声で告げた。
 俺の事が好きだとどこか照れたように。
 女子に告白なんてされた事のない俺だが、これが告白なんだな、と言う事はなんとなく思った。そして、俺も彼女と同じように目をしっかりと合わせる。
 胸の鼓動を抑えながら、俺は「考えてみてもいいかな?」と吉田に言った。
 吉田は俺の答えに満足してくれたらしく満面の笑みで俺に「期待しているね」とだけ言残し、駆け足で手を振りながら、その場を去って行った。
 俺は吉田の姿が視界に入らなくなるまで手を振り返していたが、ようやく鼓動が安定してきて、俺はふうっと一息吐いた。
 そしてようやく鞄から自転車の鍵を取り出したんだが、塾に行く気にはとてもなれなかった。
 でも家に帰るわけにも行かず、しばらく悩んでいるとなぜか無性に家庭科室に行ってみたいような気がした。

 「青春だな」
 橘は黙って俺のする話に耳を傾けていた。
 時々頷く以外に話に割って入ってくる事もなく。
 おかげで俺は自分の言いたい事は、一通り(というよりはあの時感じた感情を話しただけなのだが)吐き出す事ができた。
「まあね……。中学生だし」
 他の連中の色恋話ならたくさん耳にした。誰と誰が付き合っているだの、誰が誰を好きでどうしただとか。
 俺は色恋事には淡白な方だったし興味もなかったから自ら会話に加わる事はなかったのだが。
「で? お前はどうする。付き合うのか?」
「分からない。アイツにそんな感情抱いた事ないし」
 別に嫌いというわけでもない。むしろ逆で、好意すらも感じる。
 だが、別に大した話もした事がないし、別に吉田の事に深い思い入れがあったわけじゃない。でも吉田と付き合うのは別に嫌じゃないし、俺に告白してきた吉田を可愛いとすら思った。
 だけど、何かが腑に落ちない。
 正直言うと、俺は吉田に好意は感じるが恋慕を感じるかと聞かれれば返答に困るだろう。
「どちらにせよ好きにすればいい」と、橘はいつものように静かな声で言った。
「好きに、ね……。中々難しい言葉だな」
 橘は手にしていた、よく手に馴染んでいる万年筆を手放すと橘は窓の外を見つめた。
 目が小さく細められた橘の横顔を夕日のオレンジ色の光が照らしている。
「好きに、という言葉ほど自由で難解な言葉はないだろう。人間というイキモノは選択肢が広ければ広いほど視野が狭くなり、逆に選択肢がなければ自ら作り出そうとするものだ。恋愛の自由は憲法でも保障されている。他人に決めてもらうのも勿論自由だがやはり自分で決めた方がいいだろう。それに恋愛にも種類はある。ただ手を繋ぐだけでも愛を囁き合うだけでもないし、無論セックスをするだけでもない。真冬の北風のように冷えた恋もあれば南国の太陽の熱のような恋だってある。例えどんな事情があったにせよ、なかったにせよ決めるのはやはり、自分の意思だ。お前もそう思わんか?」
 橘の視線が俺を見つめていた。夕日に照らされた橘の姿は、なぜか神々しくさえも思えた。
「意思……ね」
「自由は難しいものだ」
「アンタは経験あるのか? 恋とか」
 橘ほど、色恋には無縁に思える人物は中々いないんじゃないだろうか。というか、橘自身も興味すらなさそうだから俺は、橘から語る言葉にすごく驚いた。
「あるぞ。婚約もしていた」
「なんか、意外だ……」
 本当に意外だ。
 素直で率直な意見を言うと、橘は面白そうに顔を歪めた。
「だが」と、突然橘のいつもの静かに話す声音とは打って変わって低いトーンの言葉だった。
「死んだがな」どこか冷めているようにも聴き取れる言葉だった。
「……どうして」
 口にしない方がいい。そう分かっているのに、俺の馬鹿な口はそう尋ねていた。
 だけれども橘は俺が思っているよりは気にしていないらしい。いや、気にしていない風を装っているのか。
「自殺だよ、自殺。首を吊って窒息死だ。ほら……」
 お前の前担任、と橘は小さな声で囁き消え入りそうな声だった。だが俺の耳には、はっきりと聞き取れていた。俺の頭は予期しない言葉に混乱してしまう。
 何と言えば。
 何と答えれば。……そんなもんは分からない。
 ただ心で感じたのは、俺は何も言わずに橘の話にそっと耳を傾けてればいい、という事だけだった。
 橘はいつものように静かで落ち着いた声で話出す。
「お前の元担任……山口桃子は俺の恋人だ。校内じゃ、あまり接する機会もなかったから誰にも知られていないが」
 俺の脳裏に浮かぶのは大人しく物静かな山口先生の顔が思い浮かぶ。あまり教師としては目立つ存在ではなかったのだが、意外にも指導力はあり俺たちのクラスは他のクラスに比べて、比較的まとまっていた方だった。
 確かに山口先生と橘となら、お似合いのカップルだと言えなくもない。確か山口先生は小説を読むのが好きだと言っていたし、たまには書く事もあると言っていた覚えがある。
「彼女とは趣味も合っていたし、性格もどこか似ていた。自然と距離は縮まり恋人と呼べる仲になったんだが……な」
 橘の声音はどこか哀愁が帯びていた。
 ブラウン色の橘の目は細められ、天井を見上げていた橘はもしかしたら涙を堪えていたのかもしれない。
「自殺するような……――人を悲しませるような女性(ひと)じゃなかったのにな」

 なんて悲しい顔なのだと、俺は思った。こんな顔をする橘を俺は一度も見た事がない。見ている俺の方も、なんだか胸が痛くなってしまう。
 俺が俯いてしばらく橘と目線を合わせられずにいて、大きな溜息を吐いてようやく顔を上げてみると、橘の視線は天井ではなく窓の外の世界を見つめていた。
 窓の外の世界――天空に咲く夕日を橘は見つめていた。
 これ以上、この場所にいるのは辛くなってしまう。そして、それになぜかいてはいけないような気がした。
 俺は一直線に教室を出て行こうとした。ここにいても俺には何もできない。
 逃げる――という言葉が正しいのかもしれない。
 そんな惨めな俺の背中に橘は一言声を投げかけた。
 それはどこか、寂しそうで、でも芯の通った力強い言葉だった。
「親は大切にしろ。それが一番楽な事だ。……一度自分をよく見つめてみる事だな」
 思わず、何かを言い返そうとしてみたが言葉が出てこなかった。
 全部、図星だったからだ。

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最期の先生02

 


関係、と呼ぶにはあまりにも薄く、味気のない付き合いだった。
 橘は部員が全員帰宅した後もしばらく家庭科室に残っている(橘が言うには授業中&部活中に書いていた文章に推敲を加えているらしい)。
 家庭科部の部活が終わるくらいには、全部活がちょうど終わる時間で、俺の入部しているサッカー部も例外なく終了となる。 
 その頃になるとだいぶ日も落ちてきて、辺りは薄暗くなる。校舎の中には少人数の生徒と教師が残っているだけで、昼間とは比べ物にならないほどに閑散としていた。
 そんな夕方の学校を俺は静かに歩き、家庭科室のある三階へと足を運ぶ。
 部活動が終われば、以前はすぐに自宅へ帰宅し寄り道などしなかったが、最近はなんとなく、気が向いた時だけ橘のいる、家庭科室へと足を運んでいいた。
 一か月に一度の時もあるが、一週間に一度の時もある。だいたい俺の気分で行ったり行かなかったりを繰り返していて、今日はたまたま二週間ぶりに橘の元へ訪れてみようとした。
 どういうわけか、たまたま橘と無性に顔を合わせたくなる時がある。それは一体、どういう事なのかは分からない。だけれども、例えば心が虚しい時だとか、悲しい時だとか、そんな事があると橘の元を訪れてみたくなるのだ。
 三階の西側の奥に家庭科室はある。
 俺はノックもせず声も掛けずにドアを開けた。
 俺の来訪に気づいた橘は軽く顔を上げたが、すぐに視線を手元へと戻してしまう。いつもの事だから橘はあんまり、俺の存在を気にしてはいないらしい。
 俺も慣れた。
 俺は決まって窓際の一番教卓から離れた後の席へと座る。椅子に座るんじゃなくて、机の上に腰を掛けて何をするでもなく、沈んでゆく夕日の微かな光を眺めているだけだった。
 燃えるような色を放つ遥か地平に見える夕日。
 ゆらゆらと夕日が蜃気楼のように揺れているように俺には見えた。綺麗というよりは、強烈な光と色。たまにこうしてゆっくりと目で見つめているだけだが、それでも日によって姿形を変える。
 俺と橘は言葉を交わす時もあれば、一言も交わさない時もある。別に会話をしに家庭科室まで来ているわけじゃないし、橘から話を振ってくる事も滅多にない。
 だから橘から口を開き言葉を出した事に、俺は少し驚いた。
「辛そうな顔だな」
「……どうして」敬語などというものは、出会って一日目にはすでに消えていた。
「そう見えたからだ。根拠などない。お前もそうだろう」
 橘の目は一度俺を見すえただけで、すぐに視線は手元の白い紙へと戻ってしまう。
「根拠はない……か」
「そうだ。いつだって物事には根拠などない」
 橘が静かに言った言葉に、俺は何か胸打つものを感じていた。
 万年筆独特の紙を擦るような音が聞こえる。
 どうやら今日は筆のノリがいいらしい。よくない時は(橘はネタがない、と言う)不気味なほど静かな音が空間を埋め尽くすのだ。
「詩人みたいな事言うな。アンタは」俺は思った事をそのまま口にした。
「これでも昔は小説家志望だったからな」
「アンタが? なんか意外だ」
 口に出しては失礼極まりないと思うが、橘が何かに情熱を燃やしていたり、目標を持っている姿があまり想像できるものではない。
「誰だって若い頃は何かを強く思うものだ」
「アンタだってまだ若いだろ」そう口に出しておいて、一緒に小さな笑い声も漏れる。
「そうか?」 
確か橘が最初に俺たちのクラスの教壇に立った時、軽く自己紹介を(淡々とした声音だった)し、その時に年齢を確か言っていたはずだった。
 詳しい歳は覚えていないが、三十代前半である事は橘の容姿からもうかがえる。
「アンタだってまだ、何か強く思ったっていいんじゃないか?」
 そんな橘の姿は想像できないんだがな。
 橘はしばらく口を噤んでいたが、しばらくしてから突然、声を上げて笑い出した。
「ふん。それよりお前が何かに夢中になったらどうだ」
「……言うね」
 俺が毎日無意味に、そして荒れた日常を過ごしているのを知って、橘は言っているのだ。
 まあそれが教師の役目なのかもしれんが、少しだけ歯痒く思う。
 でも不愉快でもなくウザったらしく、感じないのは相手が橘だからなのだろうか。
 今でも、あまりよく理解できずにいた。

    4

「…………」
 久しぶりに親父が家に帰って来ると思っていたら、そのあまりにもだらしない格好と顔に俺は意識せずとも溜息が出た。狭いソファーを占領するかのように、ベッド代わりに身を横たえ周囲にはビジネススーツや仕事の書類が錯乱している。
 片付けるのはどうせ俺だ。
「父さん。寝るなら二階で寝てくれ」
 ここはリビングで寝室ではない。俺はこれから飯にしなければならないし、そのためには台所で料理をしなくちゃいけない。
 早く飯を食べないと運動部所属の俺の腹はもってくれないし、何よりもだらしなく寝転ぶ親父の姿を見るとものすごく不愉快な思いになる。親父はあまり大柄とは言えない小柄な体をゆっくりと上げて、俺の姿を目で捉えた。
 間抜けに開いた口、焦点の合わない黒い双眸。ぼさぼさに乱れた髪……。
 どうしてかはよく分からないが、無性に親父の姿に苛立つ俺がいた。
「帰ってたのか……」
「気付いていなかったのか。……馬鹿だな」
 俺はわざと酷い言葉で親父を罵り、思わずほくそ笑む。
「っ……! 実の父親に向かって馬鹿とはなんだ」
 親父の、疲れた中年とでも言える顔が微かに歪む。
 俺は親父をじっと見すえ、笑いが込み上げてくるのを必死で耐えた。
「実の父親?」
 今さら何を、白々しい……と苛立ちは増すばかりで、言葉にも怒気が強まっていく。
「血は繋がっていても、他人だろが。俺はアンタの事を父親だと思ってない。アンタも俺を息子だと認めてない。血だけの関係だろうが」
 吐き捨てるように、俺は言った。
 なぜか、胸が痛んだ。
「そ、そんな事はない! 私はお前を実の息子だと思っている! 何よりも大切な愛しい息子だとっ! なんでそんな悲しい事を言うんだっ!」
 親父の言葉に偽りの言葉は何一つとしても、ない。
 分かっている。
 だが、俺は苛立ちしか感じず思わず全てを吐き捨ててしまいたい……そんな強い衝動に駆られてしまう。
 息を小さく吸って、声のトーンをわざと下げた。
「黙れよ。母さんに捨てられたクセに」
「――っ!!」
 親父はまるで固まったかのように、ただ、突っ立っていた。その顔は青くなっていて、俺も言ってから、なぜか悲しくなってきた。

 
 お人よしで間抜けな親父はすぐに母さんに捨てられた。
 母さんは元々キャリアを積んだエリート公務員だったのに親父の強い願望で仕方なく家庭に入った。
 そんな母さんが主婦なんて退屈極まりない、ダメな夫に尽くすだけの仕事にすぐ飽きるのは当然の事だったのだろう。来年小学二年生になる妹を産んですぐにこの家を出て行ってしまった。
 まだ、相手がしっかりとした性格で決断力を持つ男だったら離婚なんてものはしなかったに違いない。
 だが親父は家長としての能力全てに欠ける。優柔不断で決断力などなく、公務員だから一家を養う事はできるが仕事で大した功績を残してくるまでもなく。母さんにとって親父は「物足りない」夫だったのだ。
「お前は凛子に似てるな……。性格も態度も全て……」
 と、親父はまるで何かに詫びているかのように小さな、それも耳を立てていないと聴き取れないような小さな声で、ポツリと漏らした。
 俺は思わず、何をどう言えばいいのか分からずに、しばらく考えを巡らしていたが、胸の奥でする色々な感情の渦に呑み込まれそうで、怖かった。
 自然と息も苦しくなる。
 だが、俺にはこの感情を押し殺して言わなくちゃいけない言葉があった。それは自分の心を否定して、鬼のような言葉を。
「何? まだ母さんが惜しいの?」
 言ってから、後悔する。ああ、なんて事をしてしまったのだろうか……。だが、いつもと同じ事なのだ。本当の事を言えず、いつも馬鹿な事ばかりやっている。
 俺は親父を恐る恐る見た。
 手が震えていた。
 ――だが。
 親父は何も言わなかった。
 ただ悔しそうに下唇を強く噛み締めているだけで。その姿に俺はどういうわけか、泣きそうになっていた。
 どうして、素直になれないのだろう。
 その場にいつまでも居ても居た堪れない気持ちになってしまうから、俺はまるで全てから逃げるかのように自室へと走って逃げた。


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最期の先生01

 1

 

 俺の通う大里中学には変わった教師がいる。
 俺は別にその教師の姿を見た事はない。だから、どんな教師なのかは知らないのだから分からない。ただ噂で聞く話だと、見た目は普通で特別目立つ場所のある顔ではなく特徴のない、平凡な顔立ちらしい。
 教師として口うるさく宿題の提出を求めるわけでもなく、熱血教師でもない。性格は物静かでどちらかと言えば親しみやすい教師だと噂で知っていた。生徒から嫌われる事もなく、慕われているという事でもなく。俺達くらいの年頃になると他人からうるさく何かを言われたりするのがすごく、鬱陶しく感じてしまう。だから生徒達にとっては良い意味でも悪い意味でも”ありがたい”教師なんだろう。 
 その教師は技術家庭の担当であるが、俺達のクラスには違う技術家庭の教師が指導に来ているため俺はその教師の授業を受けた事がない。どんなもんなんだろうかと、興味はあったから隣のクラスの奴(五組は担当が違う)に聞いてみた話では、授業が終わるとすぐに職員室へと戻ってしまうらしい。授業の内容も他の教師達とは何も変わらない平凡で穏やかな内容。
 どこが変わった教師なのだろう。
 俺は疑問だった。その教師は家庭科部の顧問をしているらしい。家庭科部の生徒達から聞いた話だと、教師――橘という男性教師はほとんど、部員に対して指導を行わないらしい。
 部員達が火を扱う時は普通の教師、普通というのも変なのかもしれないが、世間一般の俺達が知っている教師なら、注意を軽く促すはずだ。それに次の部活で何を作りたいのか、という事をまったくと言っていいほど橘は生徒達には尋ねず、興味を示さない。部活時間に部員達がお喋りに夢中だとしても橘は咎めない。視線すらも動かさないらしい。
 なるほど。確かにそう聞けば変わった教師――変人と言えるのかもしれない。だが俺はその教師の事を噂で聞いただけだ。まだ何ともいえない。
 それに、俺は橘にそれほど興味があったわけではない。
 噂を聞いてもすぐに忘れてしまう。ほんの少しの好奇心なんて飽きたら綺麗に忘れてしまうものだ。
だから俺が橘を覚えていなくても、なんら不思議ではない。

  2 

 何故橘が俺のクラスの教壇に立っているんだ
 まるで最初からそこにいたかのように、何故いるんだ。
 ……別に大した理由はないはずだ。ただつい一週間前まで俺達を担当していた女性教師が”不慮の事故のため”死んだだけで。クラスを持たない橘が臨時の副担任となっただけだ。
 校長達は口を揃えて不慮の事故、と曖昧な説明を全校集会で生徒達に説明していたが、生徒達……少なくとも俺のクラスの連中は女教師の死因を知っていた。
 自殺、だ。
 それを隠す教師達に嫌悪感は覚えずとも、胸に引っ掛かる不信感を感じる。
 だがある意味では賢明な判断だったのだろう。生徒たちの混乱を招くと予め予測できているのだし、それに何より俺達は受験生だ。余計な刺激を与えたくないという教師たちの意図も理解できる。
 ――と、そんな”重大事件”が起きたがために橘が俺達の前で教鞭を取っているわけなのだが。どうも俺には橘からやる気というものが微塵も感じられない。
 黒板に必要なものを全て記し、生徒達にプリントを配ったらすでに用済みと言わんばかりに教師用の小さなアルミ製でできた机と鉄パイプに座り、何かを静かに書いていた。
 俺の席から見えるのは橘が万年筆を白い紙にはしらせているという事だけで、何を書いているかは分からなかった。
 ただなんとなく授業とは関係のない事なのだな、という事だけは橘の表情から窺える。
 橘は俺たちに視線を向ける事は一度もなく、熱心に手元を見ているだけ。これが橘の授業。
 二時限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると橘は授業中に書いていた白い用紙を集めクリアファイルへと閉じると席を立って教室の外へと出て行った。 
 クラスが一気に開放感に満ち溢れる中。俺は教科書を机の中へとしまい、席を立っていた。
 足は自然と教室から出ていて、橘の後ろ姿を追っていた。
「すみません」
 橘は足を止め、緩やかな動作で振り返った。
「なんだ?」橘のブラウンの瞳が俺を捉える。
「何……書いていたんですか? 授業中に」
 別に関心を持つような事ではなかった。
 だが、俺は何故か自然に橘を呼び止め、そして何を書いていたのかと、問い詰めている。
「……どうしてだ」
 橘の唇がふわっと緩められた。
 まさか、理由を聞かれるとは思っていなかった俺は、思わず何を言ったらいいのかと口ごもってしまう。
 それでも橘は俺の解答を期待しているのか、俺へと続きを促そうと視線を寄こしている。
「単なる好奇心ですよ。好奇心」
 かなり苦し紛れの答えだったが、間違いではない。
 興味と好奇心は似たようなものだろう。
 かなり投げやりな答えだったのに橘は気を悪くした様子はなく、むしろ愉快そうに顔を歪め、俺をじっと見すえていた。
「好奇心、か。正直で結構」
「――で? 答えてくれるんですか?」橘の遠回しで、答える気があるのかないのかという態度に俺は苛立った声音になっていた。
 それでも愉快と言わんばかりに橘は表情を崩さない。
「小説だ」
 強弱のない静かな声で橘はそう囁くように言った。
「小説?」
 予想外の答えに橘の言葉をオウム返しにしてしまう。
「小説だ。純愛小説」
 意外……というよりは似合わない。
 別に橘の容姿が純愛小説を書く上で違和感があると思ったわけではない(別に小説を書く上で容姿も何も関係ないが)。
 橘を近くで見れば見るほど、まあまま整った顔立ちをしている。唇は不健康に少し紫を帯びてはいるが、顎の形も眉の形もそれなりに……別に醜いわけではない。むしろ綺麗な顔立ちだとも言えなくもない。
 ただどうしてか橘の口から小説だの愛だのという単語が出てくるのに違和感を俺は感じてしまうのだ。
 容姿的な問題ではなく雰囲気の問題なのかもしれない。
「どうして?」
 俺はもっぱら読む専門で書いた事はない。だからどうして橘が純愛小説を書くという興味が胸に芽生えていた。
 すると橘の口が開かれる。白い歯が見えた。
「物語を紡ぎ出すのに、理由なんて必要か?」
 語り掛けるかのような言葉。

 

これがきっかけなのか。それともきっかけなんてそもそもなかったのか。
 それでもこれが俺と橘が最初に交わした会話で、奇妙な関係の幕開けになった事だけは確かな事だ。

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タイトル未定1


  目元に溢れる涙を堪えるのに、私は相当の労力を要した。今でも涙は隙あらば流れてきそうだ。昨日の夜に散々泣いて、頬が腫れて痛い。今日学校が休みで本当によかった。
 明日はまた学校が始まるが、学校には行きたくない。今日も夜になれば涙を堪えることなどできそうにないし、もう聞きたくない。
 ――由佳が自殺した。
 明日になれば、朝の朝礼で全校生徒に知れ渡るだろう。
 きっと、教室の由佳の机の上には花が飾られるのだ。見たいはずがない。
 つい最近まではクラスメートたちに活発な笑顔を向けていた由佳が、教室にいない。死人として扱われる。
 
「どうしてよ……」

 理解ができずに私はぼーっと部屋の時計を眺めている。時計の針は午前の十一時を指していて、かれこれ五時間はそうしていたことになる。朝起きてからずっと時計だけを眺めていた。着替える気力などなく、ベットから起きる気もない。腕を動かすのも足を動かすのも、顔の表情すら動かすのもダルい。
 親は私を気遣ってくれてわざわざ起こしに来ないし、いつもはうるさい弟も珍しく私に気を遣っているらしい。今ばかりは家族に感謝の言葉に尽きる。こんなみっともない顔を見せたくない。

「由佳……」

 彼女の名前を呼ぶだけで、一粒の涙が頬を伝う。口に涙が侵入してきて、少しすっぱい。
 私の胸の中には、様々な記憶が走馬灯のように蘇る。記憶の中には全て由佳の顔が映っている。……すべて笑顔で。
 小学生の時に虐められて、家族と相談した結果私立中学に通うことになった。無駄に頭だけは良い私だ、合格は簡単だった。だが逃げるように入学して来た私は、当然友達なんてできなかった。性格は暗いし要領も悪い私は、いつ虐めの対象にされるかビクビクして一年間を過ごした。
 二年生になって、周りは個性を主張する子やオシャレをする子、みんなはどんどん変わっていった。私は変化できないままで、みんなから置いて行かれたような錯覚を覚えていた。
 ――私みたいな暗い奴、誰も相手にしてくれない。
 絶望にも近い感情。
 それを打ち砕いてくれたのが……由佳だった。
 由佳は新学期、私の後ろの席に座っていた。最初に会話を切り出したのが由佳だ。会話に慣れていない私は上手く言葉を紡ぐことができず、俯いてしまった。普通なら暗い子だな、と思われて相手にもされないのに由佳は違った。由佳だけは違った。
 私の長い前髪を掻き分けて、にっこりとほほ笑んだ。

『なんだ、可愛いじゃん』

 それから私の由佳の関係は始まった。私と由佳は性格も得意なことや苦手なことも違ったけど、一番の親友へとなった。由佳は勉強は苦手だけど、スポーツがとても上手い。日々部活に励んで、目標はテニスの全国大会出場だといつも意気込んでいた姿が輝いている。
暇な時に私たちは色々な所へ遊びに行った。近い所はコンビニや図書館、カラオケ、遠い所では二人旅を計画して鎌倉へ行った。由佳のお祖母ちゃんの家に泊めてもらって、大仏やお寺、美術館などを二人だけで巡ったのは中学生の私たちにとっては新鮮で、とても面白かった。
 中高一貫だから受験勉強に慌てる必要はなかったけれども、由佳が私に勉強を教えてくれと中三の夏休みは二人で図書館で勉強会を開いた。必死に頭を悩ませる由佳が可笑しかった。
 由佳と一緒に過ごすうちに私はいつの間にかクラスとも溶け込められて、由佳以外の友達もたくさんできた。
 全てが変わった。
 由佳のおかげで。
 ――なのに、何故?
 由佳が何か悩んでいたり、可笑しかったりはまったくなかった。私がちゃんと見ていなかったのだろうか?
 今でも信じられない。
 あんなに明るく、クラスの人気者だった由佳。
 悩みがあるのなら、私に相談してくれればいいのに。私じゃ頼りなかったのかな? それとも私なんて、親友じゃなかった……?
 考えれば考えるほど、胸が痛くなり呼吸が荒くなる。

「由佳ぁ……」

熱い涙がまた、一粒頬を伝った。ボロボロと、濁流のように流れていく。
――また、泣いてしまった。
 一度涙を流せば、止めることは難しい。……また、ずっと流し続けるんだ。明日は学校には行けないだろうなぁ。
 
「うっ、う……」

 泣いたとしても、死人は答えてくれない。
 涙というのは無意味なものだと私は思う。ただ由佳の顔を思い出すだけで、胸を苦しめるだけのもの。
 解決はきっと、涙以外のなにか。今の私にはわからないけれども、きっと解決するんだ……。記憶が霞んでいくのと同じで。

 由佳のことを、忘れる。
 きっと、近い未来に。

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Ai


 
 僕と千草は一緒に街までショッピングに来ていた。街の中心部と言っていい場所を大規模に陣取っている大手ショッピングセンター。映画館から食料品まで人間が一生の内に消費する全てが揃っている。
 ちょうど僕たちが来た時はクリスマスシーズンだったからどの店もクリスマスの特売を行っていて、やかましく鳴り響くスピーカーから流れる音楽に僕は頭を押さえないといけなかった。
「ねーもう帰る?」
 さきほどからずっと頭を押さえていた僕を見て、千草が呆れたように言った。千草の両手にはブティック店で買った衣服の入った袋がぶら下げてある。
「少し静かにしてれば大丈夫……だと思う」
 ショッピングモールに流れるクリスマスソングが僕の頭を痛める。僕にとっては華やかな音楽でもただの騒音にしか聞こえない。
「っても、どこで休めばいいんだろ? どこもうるさいよ?」
「ほら、例えば屋上とかないの? 夏の花火大会の時、ここの屋上で見物してた人いるじゃん」
 たくさんの店舗が入っているショッピングセンターは全部で五階のフロアがあって、屋上はかなりの高さになる。
「屋上? こんな寒いのにー」
 千草はブーブーと文句を言っていたが、結局は妥協し僕たちは屋上へと続く階段を上って、頑丈な鉄の扉を開けて屋上へと上がった。さすがに12月の屋上は寒くて、身を切り裂くような風が吹き荒れていた。
「ねぇ、やっぱ寒いよー」
 不満げに千草は口を尖らせた。
「ちょっとだけだから。ね?」 
 僕は謝るように言うと、入口の真正面にある鉄でできたフェンスのある場所まで歩いた。フェンスは僕の身長より高くて、頑丈にできていた。
 僕と千草はむき出しになっているアスファルトに腰を下ろした。
 空は赤みを帯びて、太陽は後数十分で沈もうとしているところだった。地上に姿を潜めようとしている太陽は血のような色を身に纏っている。
 誰もいない屋上は異様に静かで、風の音が耳を掠めるくらいだった。ショッピングモールに流れる音楽で頭が痛くなる僕にとってはありがたいほどに落ちつける場所だ。
「蓮君って本当に色々駄目だね」
 千草が、まるで僕が全ての物に対してトラウマを持っているんじゃないか、と疑いの目を持って僕に言った。
「僕は音楽が駄目なだけなんだ」
 僕は慌てて否定した。僕は確かに音楽が苦手だけれども、それは別にトラウマじゃない。トラウマというのは過去経験した物に拒絶反応を示すものだ。僕は生まれつき音楽が嫌いなのだから、トラウマではない。
「後、暗闇も駄目でしょ?」
「ううっ」
 確かに、千草の言う通り僕は暗闇が嫌いだ。どんなに月の明りが射していたって、小さな人工的な明りがないと眠れないんだから。
 子どもっぽい、とは思う。もう高校生なのに明りもなしで眠れないなんて、これじゃあまるで小学生だ。
「蓮君トラウマいっぱ~い」
 間延びした千草の言葉に、僕は少し悔しい気持ちになる。千草、絶対に僕をカラかって楽しんでるだろ。
 ニヤニヤ笑っているし。
「……そういう千草はトラウマないの?」
 いつも自分のペースを崩さず、自我を突き通している千草。そんな千草にもトラウマはあるのだろうか? ちょっと気になった。
 僕の好奇心を帯びた視線に、千草は少しだけ困ったように表情を崩して笑った。
「私~? 私にもあるよ~」
「千草のトラウマって何? 熱いもの?」
 猫舌な千草は、熱い飲み物が飲めず、毛嫌いしている。
 トラウマとは少し違うんだろうけれど。あんまりに嫌そうな顔をするものだから、つい言ってみた。
 だが、千草はいつもみたいに茶化すような口調ではなく、珍しい真面目な表情で僕を見つめた。
 いつも思うんだけれども、千草ってやっぱり美人だ。生まれてから一度も染めたことのない絹のような髪の毛、透き通った肌の色、彫りの深い目と、バランスのとれた顔立ち。中々お目にかかれない美人だと思う。
 だから、そんな美人の千草が真面目な顔をするとひどく美しく見える。夕日の光が僕と、千草を浴びせるように照らし、アスファルトの地面には僕と千草が向かい合うような影ができていた。
「……私は、家族かな」
 囁くような、だけれども確信を含めている声音で千草はそう言った。
「家族が、トラウマ?」
「そう」
 内に溜まる感情を吐きだすかのように、千草は白い吐息を漏らした。それはまるで溜息のようでもあって、僕の心は少し憂鬱になる。
「それじゃあ、どうしょうもないね」
 まるで人ごとのように僕は呟く。
 どうしょうもない。
 その言葉が、何故だか凄く無機質で無情な意味を帯びているような気がした。
 言ってから、僕は少しだけ、また憂鬱になって、思わず小さく溜息を吐く。白い吐息が、なんだかとても寒げに見えた。
 千草は僕をちらりと一瞥すると、微かに笑った。
「うん。どうしょうもないね」
 そう言うと、千草はまたにっこりと笑うとまた吐息をもらした。
 その姿が、どこか悲しそうで。
 僕は何とも言えずに、千草から視線を逸らした。

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葛藤


グロテスク描写注意

 
 その日、私は特に機嫌が優れないわけではなかった。ただ寝床についたのが午前三時と、ここ最近私は不眠に悩まされていたのだ。
 長時間寝るのだが、あまり満足した眠りを得ることができない。そのせいか妙な夢に悩まされることが多々あった。今まで二重夢など見たことがなかったのに、この日は四つの夢を連続して見た。
 昼に起きた時は寝心地は最悪。頭は痛いし、体の力が入らない。
 ――やはりあの夢のせいだろうか?
 今でも鮮明に記憶に残っている夢を一つ挙げてみよう。


 その日私は猫を殺そうとしていた。
 理由は、訓練だ。誰かが課したものではなく、私自身に課した私だけの訓練内容。修行内容とも取れるかもしれない。
 選んだ猫は偶然私の前に通りかかった、テレビの砂嵐のような色の髪をした猫。私は猫には詳しくないので、種類は分からない。
 私は猫を見つけるや否や猫に飛びかかり、猫を瞬く間に捕らえてしまった。時間にして一分もかからなかったと思う。
 猫は抵抗したが、私の力には叶わない。鳴き声も出すことがなくて、ただ四肢をバタつかせていた。
 私は猫の細い首に手をかけた。
 このまま絞め殺そうとしたのだ。猫の整った毛並みがフワリとした柔らかい感触を覚える。まるで既に捌かれた豚肉のような感触だったことを覚えている。私は手に力をこめる。
 が、すぐに手放してしまった。
 理由は簡単。猫を殺すのに道徳心が働いたからだ。
 ただし、可愛そうなんていう動物愛護者のようなものではなく手が汚れる、生き物を殺したことがない、という我儘な理由でだ。
 だがそれでは自分が課したノルマが達成できない。それでは駄目だ……と思って私はもう一度猫の首に手をかける。だが、またすぐに離してしまう。
 邪魔したのは身勝手な理由と、何かが阻止しているような気がしたからだ。よく現実の世界で人を殴る時、途中で止めてしまうような言葉で表せない、何か。
 悲しくなってくる。
 どうして猫が殺せない。この程度ならすぐに殺せるだろう。こんなのでは人を殴れないだろう、こんなのでは人を殺せないだろう――。
 私は猫の首に何度も手をかけて、すぐに手を離すという行為を続けた。手が汚れるのが嫌ならば棒かなにかで殺してしまおう、と私は太いが長さはない木材のような棒を道端で拾い、猫を殴った。
 殴れた、ということに私はこの上なく喜びを感じた。一つの達成感が身を襲ったのだ。
 あとは猫の細い息の根を止めてしまうだけだ。
 私は何度も猫を殴った。その度に生々しい音が耳に届いたが、構わず殴り続けた。
 が、死なない。
 こんなに細い体で、弱い生き物だ。どうして死なないのだろう……私は疑問に思った。だが理由はすぐに分かった。
 力が、足りないのだ。
 いくら木材を使っているとは言え、力をこめなければこんなものはただの玩具でしかない。私は愕然とする。
 私は猫すらも殺せない、弱い心の持ち主なのか。
 唇を強く噛んだ。
 そして心に強く誓ったのを、私は今でも記憶している。
『絶対に殺してやる』
 確かに私は痙攣する猫を見ながら、誓ったのだ。


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